中国,前漢代前期に嶺南地方にあった漢人趙氏を王とする越人の国家。南粤とも記す。秦末の混乱に乗じて南海郡尉の趙佗(ちようた)が番禺(広州市)を首都に建国した(前207)。漢がおこると藩国となったが,呂后が鉄器の輸出を止めたために挙兵して自立し,福建やベトナム地方にも勢力をのばした。第4代の趙興のころになると国内は親漢派と越人派が対立,越人派が政権を握ったが,武帝の大軍に平圧されて5代で滅びた(前111)。1983年夏,広州市で住宅建設の工事中,趙佗の孫にあたる第2代南越王趙胡(在位,前137-前121?)のものと考えられる壮大な陵墓が発見され,〈文帝行璽〉の印文をもつ竜をかたどった金印をはじめ,玉衣,宝剣,装飾具など大量の副葬品が出土した。
執筆者:安田 二郎
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秦(しん)の始皇帝の嶺南(れいなん)征討に従っていた河北真定の武将趙佗(ちょうた)が、秦滅亡の混乱に乗じて南海郡尉(ぐんい)となり、紀元前207年に自立して番禺(ばんぐう)(広州)に建てた国。武帝を称した趙佗は漢に対して服属を拒み、嶺南に勢力を張ってベトナム北部までの諸民族を支配し、漢もその前半期には南越の分権的統治を認めた。第2代文帝の時代まで勢力が盛んであったが、第3代明王の死後、漢への服属をめぐって国論が分裂し、丞相(じょうしょう)呂嘉(りょか)のクーデターで反漢派が主導権を握った。漢の武帝は大軍を派遣して第5代の王、建徳や呂嘉らを殺し、南越は5代97年で滅びた(前111)。これによって漢の天下統一が完成し、武帝は中国南辺とベトナム一帯に交趾(こうち)9郡を置き、ハノイ付近の地を交趾部の治所に定めた。
[川本邦衛]
前203~前111
秦末の混乱に乗じて南海郡尉の趙佗(ちょうだ)が建国。都は番禺(ばんぐう)(広州)。広東,広西,ベトナム北部を領有して越族を支配,南海貿易の利を独占した。漢に臣属関係をとったが,武帝は南越の内紛に乗じて前111年これを滅ぼし,9郡を置いた。
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…インドシナ〈中国化〉の重要な契機は経済的理由であった。前漢の武帝による南越国征服(前111)は,中国によるベトナム植民地支配の始まりであったが,武帝が北部ベトナムに交趾,九真,日南の3郡を置いてこの地に郡県制を及ぼした背景には,真珠,タイマイ,象牙など,ここにもたらされる南海の珍貨獲得に対する中国人の強い欲求の存在を見ることができる。ベトナムが10世紀に完全独立を達成するまでの1000年間,中国の植民勢力は中国の伝統的統治思想に基づく原住民教化に努力し,社会生活の広範な領域にわたって中国文化の受容を強制した。…
…秦末,君長の騶無諸(すうむしよ)と騶揺はそれぞれの部族を率いて漢王朝の成立をたすけ,騶無諸は前202年閩越王に,騶揺は前191年東越王に安堵された。東越は,〈呉楚七国の乱〉に関与したことが遠因で滅亡,閩越も,一時は南越を侵すほど隆盛をほこったが,前110年(元封1),漢に滅ぼされ,東越と同様にその住民は今の江蘇省北部へ移住させられた。この結果,今の福建省は無人の地と化したといわれる。…
…越(於越)は文身断髪の習をもち,春秋時代に会稽(かいけい)に建国,前306年ころの滅亡後は各地に散居した。秦から漢にかけて甌越(おうえつ),閩越(びんえつ),南越がそれぞれ甌江,閩江,珠江の下流域に自立したが,漢の武帝に平圧された。山越は三国時代に丹楊(丹陽,江蘇省)を中心に活発に活動した。…
…秦代に始皇帝が大軍を派遣して征服し,南海,桂林,象の3郡を置いた。秦末,中原の混乱に乗じて趙佗が南越国を建てたが漢に滅ぼされた。漢は南海,儋耳(たんじ),合浦,蒼梧など嶺南9郡を置いて漢人の移住を推し進めた。…
※「南越」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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