足利家時(読み)あしかがいえとき

改訂新版 世界大百科事典 「足利家時」の意味・わかりやすい解説

足利家時 (あしかがいえとき)
生没年:1260?-84?(文応1?-弘安7?)

鎌倉後期の武将。父は頼氏,母は上杉重房女。室は北条時茂女。足利尊氏祖父。若くして家を背負って立ったが,得宗専制体制への傾斜が深まるなか,足利氏北条氏から外様視されていった。《難太平記》によると3代のうち天下をとることを祈願して切腹したという。没年には諸説あるが,《滝山寺(たきさんじ)縁起》に見える1284年(弘安7)説が有力。死の原因は霜月(しもつき)騒動と関連づけて推測される。
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朝日日本歴史人物事典 「足利家時」の解説

足利家時

生年生没年不詳
鎌倉時代の武将。足利頼氏の子,尊氏の祖父。母は上杉重房の娘。妻は北条時茂の娘。足利一族である今川了俊の書いた『難太平記』という書物によると,足利氏の先祖である源義家置文に「わが七代の孫にわれ生まれかわりて天下を取るべし」と書かれていたが,義家から7代目は家時であり,家時は天下を取れないことを知って,「わが命を縮めて,三代のうちに天下を取らしめ給え」と祈願して自害したと記されている。置文自体,存在したことは確実であるが,上記のような伝えは確認できない。足利市の鑁阿寺位牌によると,法号は報国寺殿義忠。没年には延慶2(1309)年ほか諸説がある。

(伊藤喜良)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利家時」の意味・わかりやすい解説

足利家時
あしかがいえとき

生没年不詳。鎌倉後期の武将。頼氏(よりうじ)の子で室町幕府を開いた尊氏(たかうじ)の祖父にあたる。『難太平記(なんたいへいき)』によると、源義家(よしいえ)が7代ののちに生まれ変わって天下をとるといい、家時がその代にあたるが、北条氏打倒は果たせそうにないことを悟り、自分の命を縮め、3代後までの間に天下をとるよう八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)に祈願して自殺したという。その3代目が尊氏というわけで、できすぎた話である。三河国の守護や伊予守(かみ)を歴任。卒去したのは30歳前後の若さであった。

[朧谷 寿]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利家時」の意味・わかりやすい解説

足利家時
あしかがいえとき

[生]弘安6(1283)
[没]文保1(1317).6.25.
鎌倉時代末期の武将。従五位下,伊予守。治部大輔頼氏の子。母は上杉重房の娘。尊氏の祖父にあたる。足利氏の先祖源義家の置文に,「われ七代の孫に生れ代りて天下を取るべし」とあるが,この7代目にあたる家時は,いまだ天下が取れないのを嘆き,「子孫三代のうちに天下を取らしめ給え」と八幡大菩薩に祈願し,置文して自害したと今川了俊著『難太平記』にあるが,真偽のほどはわからない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利家時」の解説

足利家時 あしかが-いえとき

?-? 鎌倉時代の武将。
足利頼氏の子。足利尊氏の祖父。「難太平記」によれば,先祖の源義家の遺書に,「7代後に生まれかわって天下をとる」とあり,家時はその代にあたったが,天下をとるにいたらず,「3代のうちに」と祈願して切腹したという。尊氏はその3代目にあたる。没年には延慶(えんきょう)2年(1309)のほか諸説がある。字(あざな)は太郎。
【格言など】我命をつづめて,三代の中にて天下をとらしめ給え(「難太平記」)

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