今川貞世(了俊)の著作。1402年(応永9)2月,了俊78歳のとき成立した。題名は《太平記》を批判するという意味である。しかし,これは後人の命名で,了俊の意図がそこにあったわけではなく,父範国から聞いた今川氏の歴史や応永の乱時の了俊の立場を子孫に伝えることに,著作の目的があった。内容は,今川氏の出自,今川氏の先祖の事跡,特に鎌倉幕府の滅亡から南北朝動乱期における今川氏一族の活躍,今川氏の守護職や所領の由来,将軍足利義満に対して謀反を図る鎌倉公方(くぼう)足利満兼や大内義弘と了俊の関係などが書かれている。なかでも〈7代の孫に生まれかわって天下を取る〉という源義家の置文(おきぶみ)が足利氏に伝わり,7代目の足利家時は事が成就しないため〈3代のうちに天下を取らせたまえ〉という置文を書き残して切腹したこと,そして,天下を取ったのはこの発願によったと足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が言ったという逸話が有名である。《群書類従》所収。
執筆者:佐伯 弘次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
室町時代の武将今川了俊(りょうしゅん)(貞世(さだよ))の著。1402年(応永9)の成立。九州探題として大成果をあげたにもかかわらず、将軍足利義満(あしかがよしみつ)によって1395年(応永2)その職を罷免され、1402年には駿遠(すんえん)の守護職や所領をも没収された了俊が、晩年の失意のなかで著したもの。父祖以来の今川氏の事績、ことに足利将軍家に対する今川氏の忠誠を子孫に正しく伝えることを目的とし、結果的に『太平記』の記述を部分的に修正することにもなっている。『難太平記』の書名は後人の命名であろう。内容は、足利尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)から義満までの将軍家による室町幕府の樹立とその保持という営みに、今川一族ことに了俊がどのようにかかわってきたかを具体的に記す。了俊は、儒教の政治論を取り入れた「天下万民ノタメ」の政(まつりごと)を標榜(ひょうぼう)する見地にたってその記述を行っており、室町時代の武将の政治論・将軍観ならびに主従道徳論・歴史論・家門意識などをみるに格好の書である。
[玉懸博之]
『『難太平記』(塙保己一編『群書類従 21 合戦部』所収・1977・続群書類従完成会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
室町初期までの,足利氏一門今川氏の歴史を記した覚書。1402年(応永9)今川貞世(さだよ)(了俊)晩年の著。父範国から聞いた足利尊氏の行動を記す部分には「太平記」を補訂する意図もあるため,後世この書名でよばれた。後半には,応永の乱での了俊の立場が詳しくのべられる。足利家時の置文などの伝承や,他書にない史実が記され,歌人でもある了俊の思想を知る点でも重要。「群書類従」所収。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…近江ノ国ノ住人〉とある。さらに,歌人,武人として高名であった今川了俊(貞世)が1402年(応永9)に著した《難太平記》には《太平記》の成立に関し注目すべき記述がある。法勝寺の恵鎮上人が《太平記》を30余巻持参して等持寺で足利直義に見せたところ,直義はそれを《建武式目》制定に参画した当時の碩学玄恵(げんえ)法印(玄慧)に読ませた。…
※「難太平記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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