平井城(読み)ひらいじょう

百科事典マイペディア 「平井城」の意味・わかりやすい解説

平井城【ひらいじょう】

群馬県藤岡(ふじおか)市西平井(にしひらい)にあった中世城郭。鏑(かぶら)川の支流鮎(あゆ)川西岸の段丘上に位置。15世紀中葉以降,関東管領(かんとうかんれい)で上野守護の山内上杉氏の拠点とされた。築城時期は不明だが,1438年の永享の乱の際に上杉憲実が平井に拠っており,このころには築かれていたものと推測される。1455年の享徳の乱においては上杉房顕が本拠地としている。古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)や下総下野の勢力に対抗するため,上杉方の本城として拡張されたものとみられる。以後,顕定・憲房・憲政の3代にわたって戦国期の上杉氏の本城となった。やがて小田原北条氏の勢力が北上してくると憲政はそれに抗しきれず,1552年に平井を去って越後長尾景虎上杉謙信)を頼った。当城跡から西南西約1.2kmの山頂にある金山(かなやま)城跡は当城の詰の城とされる。

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日本の城がわかる事典 「平井城」の解説

ひらいじょう【平井城】

群馬県藤岡市にあった戦国時代の平山城(ひらやまじろ)。同県指定史跡。関東管領家の山内上杉氏の最後の居城。同市平井地区の鮎川左岸の断崖上に築かれていた。1438年(永享10)に起こった永享の乱で、鎌倉公方足利持氏と対立して上野国に逃れた関東管領の山内上杉憲実が、重臣の長尾忠房(総社長尾氏)に命じて築かせたともいわれるが、築城時期・築城者については諸説ある。その後、1467年(応仁1)に、関東管領の上杉顕定が城の大改修を行い、関東管領府を置いた。以後、上杉憲政に至るまで関東管領職を継いだ山内上杉氏の居城となった。1545年(天文14)、憲政は扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏らとともに8万ともいわれる軍勢で、北条氏の川越城(河越城、埼玉県川越市)を包囲したが、翌年4月の川越野戦において小勢の北条氏康の奇襲攻撃を受けて壊滅、扇谷上杉朝定は戦死し、憲政は平井城に逃れた。その翌年の小田井原の戦いでも武田晴信(のちの武田信玄)に大敗して勢力を急速に衰えさせ、1551年(天文20)に北条氏康が2万の軍勢で平井城攻略に乗り出すと、憲政は同城を捨て春日山城(新潟県上越市)の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に脱出。平井城には嫡男龍若丸が残ったが、北条氏に降伏・開城した。城を占領した北条氏康は叔父の北条幻庵長綱を平井城主としている。その後、長尾景虎により平井城は奪還されたが、1560年(永禄3)に景虎が関東に出陣した際、厩橋城(前橋市)を関東における拠点としたことから、平井城は廃城となった。現在、城跡は関東管領平井城趾公園として整備され、土塁や内堀、橋などが復元されている。同城の南西部にある平井金山城は、平井城の詰めの城である。JR八高線群馬藤岡駅からバスで西平井下車、徒歩1分。

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改訂新版 世界大百科事典 「平井城」の意味・わかりやすい解説

平井城 (ひらいじょう)

上野国緑野(みどの)郡西平井(現,群馬県藤岡市)にある中世城郭。鏑(かぶら)川の支流鮎川の西岸断崖上に立地して,本丸,二の丸などの遺構があり,ここを中心に多くの支城が分布する。平井は伊勢皇太神宮領高山御厨の内にあり,室町時代には関東管領で上野守護の山内上杉氏の拠点となった。築城の時点は明らかでないが,15世紀前半の永享の乱上杉憲実はここに拠っており,このころには城が築かれていたことが想定される。15世紀中葉の享徳の乱において,古河公方足利成氏と下総,下野の勢力に対抗するために,上杉方の本城として平井城の縄張りが著しく拡張されたと思われる。以後,顕定,憲房,憲政の3代にわたる戦国争乱の過程で上杉氏の本城となった。しかし南から後北条氏の勢力が北上してくると,家臣団の内部分裂もあり,1552年(天文21)に上杉憲政は平井を去って越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り,景虎は憲政を擁して関東に侵攻することとなる。
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