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享徳の乱 きょうとくのらん

百科事典マイペディアの解説

享徳の乱【きょうとくのらん】

1454年(享徳3年)から1482年まで続いた関東の大乱。鎌倉公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が,関東管領(かんれい)の両上杉氏(山内上杉・扇谷上杉)と対立,成氏が上杉憲忠を謀殺し勃発。その後,下総(しもうさ)古河(こが)に走った成氏(古河公方)と,将軍義政(よしまさ)から関東に派遣され伊豆(いず)堀越(ほりごえ)に居を構えた弟の政知(まさとも)(堀越公方)が対立。上杉氏は政知を奉じて成氏としばしば戦ったが,東国武士もそれぞれを支持し,お互いに東国全域を支配下にできないまま和睦した。
→関連項目平井城

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世界大百科事典 第2版の解説

きょうとくのらん【享徳の乱】

1454年(享徳3)より82年(文明14)まで続いた関東の大乱。永享の乱(1438)ののち鎌倉公方(くぼう)は置かれていなかったが,1449年(宝徳1)8月足利持氏の遺子永寿王が京都から迎えられ,元服して成氏と称した。永寿王は結城(ゆうき)合戦でただ一人助かった持氏の末子である。一方,関東管領は上杉憲実の子憲忠が任ぜられており,成氏と憲忠の間はうまくいかなかった。成氏は下向すると千葉,小山,宇都宮らの豪族層を重用したため,山内上杉憲忠,扇谷上杉顕房の両上杉氏やその執事である長尾景仲太田資清らとの間に不穏な空気が流れはじめ,翌年4月成氏は鎌倉から江ノ島に移り,長尾,太田らがこれを攻めるという事態となった。

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世界大百科事典内の享徳の乱の言及

【上野国】より

…禅秀の乱は山内,犬懸両上杉氏の内部抗争であるが,新田岩松満純は犬懸上杉氏憲(禅秀)に味方して誅殺されてしまう。1454年(享徳3)再興された鎌倉公方足利成氏は上杉憲忠を誅殺し,ここに公方・管領をそれぞれの頂点として,関東の諸勢力は二つに分かれて相争う(享徳の乱)。この乱は78年(文明10)まで4分の1世紀にわたって行われ,上杉方は惣社,白井,鎌倉(のちに足利)の三長尾氏や上州一揆,武州一揆に支えられて,上野や武蔵を押さえて,下総古河を拠点とし,小山氏,結城氏などの下野,下総の伝統的豪族に支えられた足利成氏(古河公方)に対抗する。…

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