農村医学(読み)のうそんいがく

改訂新版 世界大百科事典 「農村医学」の意味・わかりやすい解説

農村医学 (のうそんいがく)

農村地域に特有な疾病や衛生問題などを扱う医学の一分野。農村地域に多い諸疾患を予防し,農民の健康増進を図ることを農村衛生という。第2次大戦前の日本の農村生活は,貧困な生計と過重な労働,不潔な環境を意味する以外のなにものでもなかった。当然そこには多くの健康障害があり,いわゆる〈農夫症〉や〈農民の早老〉をはじめ,多くの〈農村病〉が多発し,とくに伝染病寄生虫病,栄養失調症が広くみられた。農民の死亡率は乳幼児をはじめとして,全年齢層で高かった。しかも農村には医療機関が乏しく,かつ貧しい農民にとっては医療費の負担が耐えられぬという面もあって,医者にかかれぬまま〈手遅れ〉の形で生命を奪われたものも少なくなかった。もちろん,戦前から戦中にかけて,これらの状態を克服するための若干の努力はなされていた。たとえば,高橋実の《農村衛生の実証的研究》(1940),林俊一の《農村医学序説》(1944)などの諸研究がそれである。しかし,戦後の1952年になって,このような前近代的な農民の不健康と医療の遅れに対し,その解放をめざして全国的な研究組織である日本農村医学会が設立された。これによって農村病の医学的解明がいっそう進むことになった。

 ここで当初明らかにされたことは,農業労働の過労や作業姿勢からくる〈甲手(こうしゆ)〉(〈そら手〉ともいう。手の過労性腱鞘炎),〈腰曲り〉〈ぎっくり腰〉をはじめ,〈胆虫症〉〈冷え〉〈気がね病〉など,農村民に多発する特殊な疾患や災害についてであった。また,このほか農民に多い自覚症状である,肩こり,腰痛,手足のしびれ,夜間多尿,不眠等については,藤井敬三,若月俊一らによって〈農夫症〉として体系づけられた。さらに若月は,無医村的環境,経済的困難,農繁期の多忙等の社会的理由により,疾病を有しながら受診していないものを〈潜在疾病〉と名づけ,これを〈がまん型〉と〈気づかず型〉とに分類した。一方,これらの健康障害を克服するために,〈健康手帳〉による健康管理や〈農民体操〉の普及が各地で始まった。

 若月は農村医学の対象を社会的病因論の立場から三つに分類している。すなわち,農業という職業,農家という生活慣習,そして農村という環境である。それらに対応する健康障害は,それぞれ〈農業病〉〈農家病〉〈農村病(狭義の)〉となる。農業病は,産業衛生でいう職業病および労働災害に相当するものであり,農作物家畜によるもの,農耕地(田,畑,山林)の不潔によるもの,農作業の過労(とくにその〈かがまり仕事〉)が関係するもの,農機具・家畜による事故,農薬・肥料によるものなどがあげられる。農家病は,農家の衣食住の生活に関係するもので,住居の不衛生(とくに〈冷え〉),不合理な栄養,気がね・気苦労などのストレスによるものなどがあげられ,そのおもなものは,いわゆる成人病である。農村病は,不衛生な村の環境によるもので,伝染病や寄生虫病,そして地方病といわれるものが該当する。かつての農村では,後2者の農家病,農村病が重要なテーマであった。

 しかるに1955年を過ぎるころから,いわゆる高度経済成長政策のもとで,農業の〈近代化〉が進められ,新しい合成農薬の登場と動力農機具の普及により,農薬中毒,農機具災害が急速に増加し,新しい農業病の問題がクローズアップされるに至った。しかも前者では有機水銀,有機塩素剤が食品および環境に残留することから,農薬公害として大きな社会問題にまで発展した。またハウス栽培の普及により,それに従事する農民に〈ハウス病〉が多発した。一方,農業の兼業化により〈母ちゃん農業〉や出稼ぎが進行し,主婦たちの健康障害〈新しい農夫症〉の出現や,〈出稼災害〉〈出稼精神病〉の多発が大きな問題となった。また兼業化は農家生活の〈都会化〉を進展させ,それは一方では衣食住の生活を向上させることに役立ったが,他方では家庭破壊を進行させ,かつての気がねとは別な形の精神的ストレスを累積させた。これはまた子どもや年寄りを〈放ったらかし〉にする原因になり,彼らの健康にも重要な影響を及ぼしつつある。さらに農村環境の問題では,伝染病や寄生虫病の心配は減少したものの,企業の進出とともに,新たな〈農村公害〉の問題が起こってきている。

 以上のように農村および農業の変貌とともに,農村医学のテーマも大きく変わりつつあるが,それと並んで集団検診と保健教育を結びつけた広範な健康管理活動が,農協組織を中心に全国的に広がりつつある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「農村医学」の意味・わかりやすい解説

農村医学
のうそんいがく

農村の自然的,社会的特性をふまえて,農村,農民に特有な健康問題を研究し,解決していこうとする社会医学の一分野。第2次世界大戦前からすでに高橋実,林俊一や倉敷労働科学研究所などの業績があったが,農村医学の名称が一般化したのは戦後,若月俊一らの活動によるところが大きい。林は農村医学の課題を「農村の保健衛生状態が詳細に報告され,その社会的=医学的病因が鮮明にされること」 (1944) とし,若月は農村の疾病を,(1) 農業労働的因子による農業病,(2) 農家の生活慣習的因子による農家病,(3) 農村の自然的,社会的衛生環境因子による農村病としてとらえ,実証研究や実践活動を積重ねてきている。農村医学はその社会医学的性格から,第一線の医療従事者をはじめとして幅広い分野の研究者によって進められてきたが,最近の農村の急激な変貌に伴う新たな健康問題に対処するためには,こうした広い分野の研究の共同がさらに必要となってきている。

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