近藤忠義(読み)コンドウ タダヨシ

20世紀日本人名事典 「近藤忠義」の解説

近藤 忠義
コンドウ タダヨシ

昭和期の国文学者 法政大学名誉教授。



生年
明治34(1901)年11月10日

没年
昭和51(1976)年4月30日

出生地
兵庫県神戸市

学歴〔年〕
東京帝国大学国文科〔昭和2年〕卒

学位〔年〕
文学博士

経歴
東京府立六中、智山専門学校、東京音楽学校、東京女子大、長野女専などを経て、昭和9年から42年まで法政大学教授。その後和光大学教授。その間、12年「日本文学原論」を、13年「近世小説」を刊行近世文学を専門とし、戦後日本文学協会初代委員長として組織化に努める。他の著書に「西鶴」「近世文学論」「日本文学の進路」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「近藤忠義」の意味・わかりやすい解説

近藤忠義 (こんどうただよし)
生没年:1901-76(明治34-昭和51)

日本文学研究者。神戸市生れ。法政大,和光大教授などを務める。専門は西鶴,歌舞伎であるが,主著《日本文学原論》(1937)は時流に抗して作品作家を歴史的・社会的観点から科学的にとらえる方法を提示し,強い影響を与えた。戦後,研究の思想的方法的変革を求める研究者,教育者を糾合して日本文学協会の設立尽力,長くその委員長を務めた。著作集3巻がある。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「近藤忠義」の意味・わかりやすい解説

近藤忠義
こんどうただよし
(1901―1976)

国文学者。神戸市生まれ。1927年(昭和2)東京帝国大学国文科卒業。32年以降マルクス主義に基づく日本古典文学研究を発表、「歴史・社会」学派中心人物として活躍。34年法政大学教授。『日本文学原論』(1937)などを刊行、軍国主義的思潮に抗し44年検挙。敗戦後、日本共産党入党。46年日本文学協会を組織、のち初代委員長に推され、中国、ソ連チェコスロバキアなどに招かれた。66年(昭和41)和光大学教授。没後『近藤忠義 日本文学論』全3巻(1977)が刊行された。

[祖父江昭二]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近藤忠義」の解説

近藤忠義 こんどう-ただよし

1901-1976 昭和時代の国文学者。
明治34年11月10日生まれ。唯物史観立場から近世文学を研究。昭和9年法大教授。12年「日本文学原論」を刊行,歴史社会学派の中核となる。戦後,日本文学協会を設立し初代委員長。41年和光大教授。昭和51年4月30日死去。74歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作はほかに「近世文学論」など。

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367日誕生日大事典 「近藤忠義」の解説

近藤 忠義 (こんどう ただよし)

生年月日:1901年11月10日
昭和時代の日本文学者。法政大学教授;和光大学教授
1976年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の近藤忠義の言及

【日本文学】より

… 大正から昭和にかけてのデモクラシー,社会労働運動の台頭・高揚,それに伴うプロレタリア文学の出現は,日本文学研究にもあらたな潮流をよび起こした。〈歴史社会学派〉と称される人々の史的唯物論にもとづく日本古典の歴史的意義の追求がそれであり,近藤忠義《日本文学原論》(1937),永積安明《中世文学論》(1944)などは,非社会的な〈国文学〉の内在的批判,戦争とファシズムへの学問的抵抗の所産としての価値と意義をになっている。この学派の周辺から風巻景次郎《新古今時代》(1936),吉野裕《防人歌の基礎構造》(1943)が,また同じく戦時下の著ながら記紀に文学の息吹をよみがえらせた高木市之助《吉野の鮎――記紀万葉雑考――》(1941)がこんにちも色あせぬ成果を示すことが注目されよう。…

※「近藤忠義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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