西鶴(読み)さいかく

精選版 日本国語大辞典 「西鶴」の意味・読み・例文・類語

さいかく【西鶴】

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デジタル大辞泉 「西鶴」の意味・読み・例文・類語

さいかく【西鶴】

井原西鶴いはらさいかく

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百科事典マイペディア 「西鶴」の意味・わかりやすい解説

西鶴【さいかく】

俳人,浮世草子作者。姓は井原出自家系は不明だが,一説によれば,俗名平山藤五で,名跡を手代に譲った裕福な大坂町人という。初め鶴永,のちに西鶴と号する。15〜16歳ころから貞門俳諧に入り,のちに談林派転向矢数俳諧に活躍し,1684年住吉社頭で一昼夜2万3500句を独吟。二万翁,二万堂と自称。俳諧集《生玉万句》《大矢数》などを出した。1682年,《好色一代男》を刊,浮世草子を創始した。好色物,町人物,武家物,雑話物などの各分野で,活気あふれる町人の経済生活や遊里での享楽生活を,あるいは武家社会の意気地と義理の生活を描いている。いずれも話芸的な方法を自在に駆使した短編小説集で,主題に収斂したり,人物像に凝集するとは限らない展開のしかたに俳諧の原理と同根のものが見出せる。代表作に《好色一代女》《好色五人女》《西鶴置土産》《日本永代蔵》《世間胸算用》《武道伝来記》《西鶴諸国ばなし》などがある。
→関連項目尾崎紅葉上方文学けいせい色三味線元禄文化好色本幸田露伴宗因武田麟太郎団水棠陰比事真山青果森銑三

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世界大百科事典 第2版 「西鶴」の意味・わかりやすい解説

さいかく【西鶴】

1642‐93(寛永19‐元禄6)
江戸前期の俳人,浮世草子作者。宗因門。姓は井原。別号は鶴永,雲愛子,四千翁,二万翁,西鵬(さいほう)。軒号は松風軒,松寿軒,松魂軒。出自や家系はすべて明らかでないが,一説によると,俗称を平山藤五という大坂の裕福な町人で,名跡を手代に譲り,気ままに生きることを選んだという(《見聞談叢》)。彼自身,15歳のころ俳諧を始め,21歳のころ点者になったというが,師承系列も明らかでなく,立机(りつき)の時期も,歳旦吟(歳旦帳)の見え始める1672年(寛文12)31歳のころとすべきであろう。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西鶴」の解説

西鶴 さいかく

井原西鶴(いはら-さいかく)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西鶴」の意味・わかりやすい解説

西鶴
さいかく

井原西鶴

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西鶴」の意味・わかりやすい解説

西鶴
さいかく

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世界大百科事典内の西鶴の言及

【浮世草子】より

…1682年(天和2)の井原西鶴の《好色一代男》より約100年,天明初年までのあいだ,主として京坂の地で行われた,現実的な態度で風俗・人情を描くことを基本的な姿勢とする小説の総称。西鶴の活動によって,町人はみずからの文学をはじめて獲得したといってよい。…

【源氏物語】より

…近世に入っても,連歌に続く俳諧の付句などに依然としてこの伝統は伝わった。松永貞徳の弟子の北村季吟が《湖月抄》を著し,談林から出た西鶴が光源氏に想を得て,《好色一代男》を作り上げたなどはその一例である。その他上田秋成,近松門左衛門あるいは歌謡類にもその影響はみとめられる。…

【好色一代男】より

…1682年(天和2)10月刊。井原西鶴の最初の小説であるとともに,浮世草子と呼ばれる近世小説に道をつけた作品でもある。8巻54章からなり,各章に西鶴自筆の挿絵を載せ,跋文を西吟が書いている。…

【西鶴置土産】より

…浮世草子。井原西鶴作。5巻15章。…

【西鶴諸国はなし】より

…浮世草子。井原西鶴作。5巻35話。…

【正風】より

…幽斎は,《古今集》《新古今集》,近くは実隆などの〈花実相通(かじつそうつう)〉の歌風を正風とし,〈先づ正風体を本とすべきなり〉と重んじ(《耳底記(にていき)》),兼載は,伝統的な和歌の美意識をすなおに受け入れた風体を連歌の正風体とした(《景感道》)。貞門俳諧では,連歌に準拠した〈実(まこと)〉の勝った自派の俳風を,談林の異風に対して正風体と称したが,談林の西鶴は,連歌以来の正統な付物(つけもの)による俳風を正風とし,当流仕立ての正風体を重んじた。元禄期(1688‐1704)には,定型を守った有心(うしん)の俳体が流行し,正風体と呼ばれた。…

【諸艶大鑑】より

…浮世草子。井原西鶴作。8巻40章。…

【世間胸算用】より

西鶴作の浮世草子。1692年(元禄5)刊。…

【団水】より

…姓は北条,名は義延,別号は白眼居士,滑稽堂など。〈延宝のとし団水と改名せられし夏の比〉と前書した〈団(まどか)なるはちすや水の器(うつはもの)〉(《秋津島》)の句を西鶴から贈られているから,12~19歳ごろ西鶴門の俳人として改号した事実が知られるが,前号,前歴はまったく明らかでない。天和期(1681‐84)ごろまで大坂に住し,貞享(1684‐88)の一時期紀州にあり,間もなく京都に移住,西鶴没の翌1694年(元禄7)大坂に移って師の庵に入り西鶴庵を襲名,1701年京都に帰住した。…

【談林俳諧】より


[台頭期]
 貞徳の没後大坂・堺など地方俳壇の分派活動が目だち始め,俳書の刊行があいつぐなか,1671年には大坂の以仙(いせん)が《落花集》を編み,宗因の独吟千句を収めてこれに談林の教書的役割を果たさせ,翌72年には伊賀上野の一地方俳人宗房(そうぼう)(芭蕉)が,流行語や小唄の歌詞をふんだんに盛り込んだ句合(くあわせ)《貝おほひ》を制作。さらに翌73年には,世間から阿蘭陀流とののしられていた西鶴が,貞門の万句興行に対抗して,大坂生玉社頭に門人・知友を集め《生玉(いくたま)万句》を興行した。
[最盛期]
 宗因の《蚊柱(かばしら)百句》(1674)をめぐり,論難書《しぶうちわ》,翌1675年惟中(いちゆう)の《しぶ団(うちわ)返答》が出され,新旧の対立がにわかに激化した。…

【男色大鑑】より

…井原西鶴作の浮世草子。8巻8冊。…

【俳画】より

…宗祇,宗鑑,守武ら俳諧の始祖といわれる人々や,貞門俳諧の指導者であった松永貞徳らは,俳画といえるものを遺さなかったが,貞門に学んだ立圃(りゆうほ)は,俳諧独特の機知や滑稽味を反映した作品を遺した。西鶴は即興軽口の新風を誇示したその句風をそのまま反映する即興的表現を試み,俳画に新たな展開を与えた。〈軽み〉をきわめようとした芭蕉は,その句風にふさわしく,機知や諧謔味に富んだものというよりは,平明で気取らず,偽らぬ真摯な実感そのままを淡々と絵筆に託した。…

【武家義理物語】より

…浮世草子。井原西鶴著。1688年(元禄1)刊。…

【武道伝来記】より

…浮世草子。井原西鶴著。1687年(貞享4)刊。…

【本朝桜陰比事】より

…浮世草子。井原西鶴著。1689年(元禄2)刊。…

【本朝二十不孝】より

…浮世草子。井原西鶴作。1686年(貞享3)刊。…

【矢数俳諧】より

…通し矢は1662年(寛文2)に尾張藩士星野勘左衛門が6600本,68年に紀州藩士葛西団右衛門が7000余本を記録したが,翌年再び星野が挑んで総矢1万542本中通し矢8000余本の新記録を樹立,総一(天下一)を称した。この競技に刺激された西鶴は,77年(延宝5)5月25日大坂生玉本覚寺で1600韻の独吟に成功,《西鶴俳諧大句数》と題して刊行した。ところが同年月松軒紀子(きし)が1800韻(《大矢数千八百韻》),79年大淀三千風(みちかぜ)が2800韻(《仙台大矢数》)の独吟に成功し,西鶴の記録を破った。…

【万の文反古】より

…浮世草子。井原西鶴作。1696年(元禄9)刊。…

※「西鶴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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