江戸前期の俳人,浮世草子作者。宗因門。姓は井原。別号は鶴永,雲愛子,四千翁,二万翁,西鵬(さいほう)。軒号は松風軒,松寿軒,松魂軒。出自や家系はすべて明らかでないが,一説によると,俗称を平山藤五という大坂の裕福な町人で,名跡を手代に譲り,気ままに生きることを選んだという(《見聞談叢》)。彼自身,15歳のころ俳諧を始め,21歳のころ点者になったというが,師承系列も明らかでなく,立机(りつき)の時期も,歳旦吟(歳旦帳)の見え始める1672年(寛文12)31歳のころとすべきであろう。翌73年(延宝1),貞門から異端視されていた宗因ら新興勢力の楯となるかたちで《生玉万句(いくたままんく)》を興行,また大坂俳壇の正統的な人脈の中に自己を位置づけるべく《哥仙(かせん)大坂俳諧師》を編んで,中央俳壇進出の望みを果たした。俳風は奇抜な談林風を基調としつつ,世俗の人情や生活に根ざした〈俳言(はいごん)〉を〈軽口(かるくち)〉に任せて速吟する点に特徴があった。75年4月,3人の幼児をのこし25歳の若さで病没した愛妻追善のため《独吟一日千句》を興行,同年冬,剃髪して僧形となった。速吟の傾向はこのころからいっそう強まり,77年に1日1600句の独吟《西鶴俳諧大句数(おおくかず)》,80年に同じく4000句の独吟《西鶴大矢数(おおやかず)》を成就した。80年代(天和・貞享期)の俳諧は,漢詩文もどきのことば遊びから優美な連歌調へ,〈親句(しんく)〉の付合(つけあい)から〈疎句(そく)〉の付合へと急速に移り変わったが,今様の風俗を俳言と俳言の緊密な付合上に描き出そうとする親句主義の西鶴はこれについてゆけず,一時俳諧の制作から遠ざかった。しかし俳言による表現意欲は衰えず,一般に俳人の転合書(てんごうがき)というかたちで存在した散文の制作に力を入れ,82年(天和2)《好色一代男》を完成,これが浮世草子の第1作となった。
小説として豊かに肉づけられたこの俳言の書は,俳人層を中心にひろく受け入れられ,版を重ね,西鶴の作家的自覚と書肆の出版意欲とを促し,84年(貞享1)には〈世の慰草(なぐさみぐさ)を何かなと尋ね〉た遊里小説集《諸艶大鑑(しよえんおおかがみ)》(別称《好色二代男》)が出された。この年また矢数俳諧に挑み,時代錯誤とはいえ,1日独吟2万3500句という,余人の追随を許さぬ快記録を立てたことで,いよいよ作家活動へのふんぎりがついたとみえ,翌85年から88年(元禄1)にかけての短期間に,《西鶴諸国はなし》《椀久(わんきゆう)一世の物語》《好色五人女》《好色一代女》《本朝二十不孝》《男色(なんしよく)大鑑》《懐硯(ふところすずり)》《武道伝来記》《日本永代蔵(えいたいぐら)》《武家義理物語》《嵐無常物語》《色里三所(みところ)世帯》《新可笑記》《好色盛衰記》《本朝桜陰比事》など,浮世草子の大半を書き上げた。それらは,色欲や物欲のためにくりひろげられるさまざまな男女の悲喜劇を,話芸的方法で描いた短編小説集であるが,故事・古典のタネを今様にふくらませるしかたに俳諧性が感じられ,個々の話が主題への凝集性をもたず,人物,素材,話柄などの外枠によって集成され,著しく未完結的である点に前近代的な性格が認められる。
89年ころから俳壇に復帰,西鶴らの評点を笑いものにした《俳諧物見車(ものみぐるま)》(1690)への反論書《俳諧石車》(1691)の述作に情熱を燃やすなど,健在ぶりを示した。一方,散文の面では,92年名作《世間胸算用(せけんむねざんよう)》を制作,市井の片隅にうごめく無名の人々の生きざまを,大晦日の一日に限定して描いてみせ,作家西鶴の一つの到達点をうかがわせた。翌93年8月10日,〈人間五十年の究り,それさへ我にはあまりたるに,ましてや〉と前書き,〈浮世の月見過しにけり末二年〉(《西鶴置土産》)の吟を辞世に,大坂で没した。52歳。墓は八丁目寺町誓願寺(現,大阪市中央区上本町西)にある。法名は仙皓(せんこう)西鶴。没後,《西鶴置土産》《西鶴織留(おりどめ)》《西鶴俗つれづれ》《万の文反古(よろずのふみほうぐ)》《西鶴名残の友》などの遺稿が,門人北条団水によって整理され,出版された。〈大晦日さだめなき世の定めかな〉(《三ケ津》)。
執筆者:乾 裕幸
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…1682年(天和2)の井原西鶴の《好色一代男》より約100年,天明初年までのあいだ,主として京坂の地で行われた,現実的な態度で風俗・人情を描くことを基本的な姿勢とする小説の総称。西鶴の活動によって,町人はみずからの文学をはじめて獲得したといってよい。…
…近世に入っても,連歌に続く俳諧の付句などに依然としてこの伝統は伝わった。松永貞徳の弟子の北村季吟が《湖月抄》を著し,談林から出た西鶴が光源氏に想を得て,《好色一代男》を作り上げたなどはその一例である。その他上田秋成,近松門左衛門あるいは歌謡類にもその影響はみとめられる。…
…1682年(天和2)10月刊。井原西鶴の最初の小説であるとともに,浮世草子と呼ばれる近世小説に道をつけた作品でもある。8巻54章からなり,各章に西鶴自筆の挿絵を載せ,跋文を西吟が書いている。…
…浮世草子。井原西鶴作。5巻15章。…
…浮世草子。井原西鶴作。5巻35話。…
…幽斎は,《古今集》《新古今集》,近くは実隆などの〈花実相通(かじつそうつう)〉の歌風を正風とし,〈先づ正風体を本とすべきなり〉と重んじ(《耳底記(にていき)》),兼載は,伝統的な和歌の美意識をすなおに受け入れた風体を連歌の正風体とした(《景感道》)。貞門俳諧では,連歌に準拠した〈実(まこと)〉の勝った自派の俳風を,談林の異風に対して正風体と称したが,談林の西鶴は,連歌以来の正統な付物(つけもの)による俳風を正風とし,当流仕立ての正風体を重んじた。元禄期(1688‐1704)には,定型を守った有心(うしん)の俳体が流行し,正風体と呼ばれた。…
…浮世草子。井原西鶴作。8巻40章。…
…西鶴作の浮世草子。1692年(元禄5)刊。…
…姓は北条,名は義延,別号は白眼居士,滑稽堂など。〈延宝のとし団水と改名せられし夏の比〉と前書した〈団(まどか)なるはちすや水の器(うつはもの)〉(《秋津島》)の句を西鶴から贈られているから,12~19歳ごろ西鶴門の俳人として改号した事実が知られるが,前号,前歴はまったく明らかでない。天和期(1681‐84)ごろまで大坂に住し,貞享(1684‐88)の一時期紀州にあり,間もなく京都に移住,西鶴没の翌1694年(元禄7)大坂に移って師の庵に入り西鶴庵を襲名,1701年京都に帰住した。…
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[台頭期]
貞徳の没後大坂・堺など地方俳壇の分派活動が目だち始め,俳書の刊行があいつぐなか,1671年には大坂の以仙(いせん)が《落花集》を編み,宗因の独吟千句を収めてこれに談林の教書的役割を果たさせ,翌72年には伊賀上野の一地方俳人宗房(そうぼう)(芭蕉)が,流行語や小唄の歌詞をふんだんに盛り込んだ句合(くあわせ)《貝おほひ》を制作。さらに翌73年には,世間から阿蘭陀流とののしられていた西鶴が,貞門の万句興行に対抗して,大坂生玉社頭に門人・知友を集め《生玉(いくたま)万句》を興行した。
[最盛期]
宗因の《蚊柱(かばしら)百句》(1674)をめぐり,論難書《しぶうちわ》,翌1675年惟中(いちゆう)の《しぶ団(うちわ)返答》が出され,新旧の対立がにわかに激化した。…
…井原西鶴作の浮世草子。8巻8冊。…
…宗祇,宗鑑,守武ら俳諧の始祖といわれる人々や,貞門俳諧の指導者であった松永貞徳らは,俳画といえるものを遺さなかったが,貞門に学んだ立圃(りゆうほ)は,俳諧独特の機知や滑稽味を反映した作品を遺した。西鶴は即興軽口の新風を誇示したその句風をそのまま反映する即興的表現を試み,俳画に新たな展開を与えた。〈軽み〉をきわめようとした芭蕉は,その句風にふさわしく,機知や諧謔味に富んだものというよりは,平明で気取らず,偽らぬ真摯な実感そのままを淡々と絵筆に託した。…
…浮世草子。井原西鶴著。1688年(元禄1)刊。…
…浮世草子。井原西鶴著。1687年(貞享4)刊。…
…浮世草子。井原西鶴著。1689年(元禄2)刊。…
…浮世草子。井原西鶴作。1686年(貞享3)刊。…
…通し矢は1662年(寛文2)に尾張藩士星野勘左衛門が6600本,68年に紀州藩士葛西団右衛門が7000余本を記録したが,翌年再び星野が挑んで総矢1万542本中通し矢8000余本の新記録を樹立,総一(天下一)を称した。この競技に刺激された西鶴は,77年(延宝5)5月25日大坂生玉本覚寺で1600韻の独吟に成功,《西鶴俳諧大句数》と題して刊行した。ところが同年月松軒紀子(きし)が1800韻(《大矢数千八百韻》),79年大淀三千風(みちかぜ)が2800韻(《仙台大矢数》)の独吟に成功し,西鶴の記録を破った。…
…浮世草子。井原西鶴作。1696年(元禄9)刊。…
※「西鶴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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