近衛基煕
このえもとひろ
(1648―1722)
江戸前・中期の摂家(せっけ)。関白近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。生母は家女房(いえにょうぼう)(瑶林院(ようりんいん))。幼名は多治丸(たじまる)。1653年(承応2)父尚嗣が没し、6歳の庶子ながら、後水尾(ごみずのお)法皇の配慮により無事に家督を相続。以後、法皇の影響を受けながら成長し、1664年(寛文4)法皇皇女の品宮(しなのみや)(常子(つねこ)内親王)と婚姻。1677年(延宝5)左大臣に昇進するが、霊元天皇(れいげんてんのう)とはことごとく意見が合わず、1682年(天和2)右大臣一条兼輝(かねてる)に関白職を越任される。1690年(元禄3)関白就任。やがて東山天皇の信任を得て朝廷第一の実力者となり、1709年(宝永6)には、公家として江戸時代最初の太政大臣に任じられた。長女の煕子(ひろこ)は6代将軍徳川家宣の御台所。この縁で家宣や間部詮房(まなべあきふさ)らと親交を深め、1710年から2年間江戸に滞在し、閑院宮(かんいんのみや)創立にも寄与した。和歌や有職故実などへの造詣が深く、書画にも秀でた当代一流の文人でもある。1722年(享保7)6月出家。同年9月死去。法号は応円満院悠山証岳(ゆうざんしょうがく)。
[久保貴子]
『久保貴子著『近世の朝廷運営』(1998・岩田書院)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
近衛基煕 (このえもとひろ)
生没年:1648-1722(慶安1-享保7)
江戸前期の公卿。関白尚嗣の男。母は後水尾天皇の女二宮。号は悠山。法号応円満院。権大納言,右大臣などを経て,1677年(延宝5)左大臣,90年(元禄3)関白,1709年(宝永6)太政大臣となる。22年(享保7)6月15日出家し,証岳と号した。その女熙子は徳川家宣室でもあり,幕府との関係も深く,新井白石とも親交があった。日記を《基煕公記》(1665-1722)という。
執筆者:橋本 政宣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
近衛基煕 このえ-もとひろ
1648-1722 江戸時代前期-中期の公卿(くぎょう)。
慶安元年3月6日生まれ。近衛尚嗣(ひさつぐ)の子。母は昭子内親王(実母は家女房瑶林院)。明暦元年従三位。元禄(げんろく)3年(1690)関白,氏長者となり,宝永6年(1709)太政大臣,同年辞任。従一位にいたる。後水尾(ごみずのお)天皇の影響をうけ,和歌,連歌,絵画などにすぐれた。享保7年9月4日死去。75歳。一字名は悠,菊。号は応円満院。日記に「基煕公記」,著作に「一簣(いっき)抄」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
近衛基煕
このえもとひろ
[生]慶安1(1648).3.6.
[没]享保7(1722).9.14.
江戸時代の公卿。号は応円満院。法名は悠山。父は尚嗣。母は後水尾天皇の皇女昭子内親王。元禄3 (1690) 年関白,同 16年関白を辞した。宝永6 (1709) 年 10月太政大臣,同年 12月辞任。和歌と絵画に秀でていた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
近衛基煕 (このえもとひろ)
生年月日:1648年3月6日
江戸時代前期;中期の公家
1722年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
Sponserd by 