室町幕府が明への朝貢の形式をとって派遣した貿易船。勘合(かんごう)(符)を携帯したので勘合船ともいう。1回に5~9隻の船団が派遣されたが、15世紀後半には明により3隻に制限された。幕府は船の経営を守護大名や寺院にまかせ、勘合を給付するにあたって多額の礼銭をとった。経営者は付搭物(ふとうぶつ)(朝貢物以外に、幕府、船を経営する大名や寺院、船に搭乗した客商や従商が積み込む商品)の購入費を別として、船の賃借料、修理費、乗組員の人件費、入明までの食糧・進貢物購入費などに、1船につき約1500貫文を要した。その大部分は商人へ賦課した銭で賄われた。乗船者は正使、副使、居座(こざ)、土官(とかん)、客商、従商、船頭、水夫など、1船に100~200人になり、正・副使と水夫を除いて、他のほとんどが瀬戸内、北九州の商人であった。付搭物を中心とした取引による純利益は、1隻当り1万貫から2万貫ほどと推定され、富裕な商人を多く乗せるほど経営者の利益は増した。派遣船団数が制限されると、大内氏と細川氏とが経営を激しく争い、最後は大内氏が経営を独占した。
[池上裕子]
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出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1434年(永享6)以後に,明から日本の遣明船に対して適用された通交の条件といわれるもの。この年が明の宣徳9年にあたるところから,宣徳要約ともいわれる。…
…貿易の実権は内海地域に勢力を有する大内,細川,山名などの諸大名と,これと結ぶ西国商人に掌握されていた。貿易船として内海中部の大型船が多く使われ,51年(宝徳3),64年(寛正5)の遣明船は,出発の際いずれも尾道に立ち寄っている。この港が守護山名氏の内海の拠点であっただけでなく,主要な輸出品である銅や刀剣がおもに中国地方で生産されたからである。…
…幼名善四郎,字は貞清。神屋家は室町中期より代々博多の主だった豪商で,2代目主計は1539年(天文8)に遣明船の総船頭をつとめるなど,一族とともにたびたび遣明船貿易に従事した。また貿易の関係で従来から神屋家は出雲の鷺銅山の銅を求めていたが,3代目寿貞によって鉛を媒剤とする銀の製錬技術を輸入し,1533年他の博多の吹工の協力を得て石見銀山の経営に成功した(《銀山旧記》)。…
…縦1尺2寸,横2尺7寸ほどの料紙の2ヵ所に〈本字壱号〉〈本字弐号〉のような印を順次に半印したものであった。遣明船が勘合を所持して入明すると,まず寧波(ニンポー)の浙江市舶司,ついで北京の礼部で明側の底簿(台帳)と照合検査され,その後は礼部に没収された。勘合貿易【田中 健夫】。…
…日本の遣明船によっておこなわれた日明間の貿易に対する俗称。一般には,勘合(勘合符)を用いておこなわれた貿易と解されているが,勘合は船舶の渡航証明書ではあるけれども貿易の許可証ではなく,勘合貿易という用語は日明間の貿易の実体を正しくいいあらわしたものとはいえない。…
…室町時代の遣明船の航路の一つ。遣明船の航路には中国路と南海路とがあった。…
…足利義満が明との通交開始に成功したのは,15世紀の初め博多商人肥富(こいつみ)が明から帰って通交の利を義満に説いたのが原因であったという。遣明船は150年間に19回ほど派遣されたが,1404年(応永11)以後は明の礼部で発行した渡航証明書の勘合を所持することを義務づけられた。1回の渡航船は3~9隻,3年に1度くらいの割合で渡航した。…
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[対明交易,能・狂言面]
1368年(正平23∥応安1)の明の建国は,日本と大陸との交易に新しい局面をもたらした。1401年(応永8)義満は明との国交を開始し,以後1543年(天文12)までの間,遣明船の派遣は17度ほどに及び,多くの明の美術工芸品を新しい唐物として日本にもたらした。その影響は,義政の代のころから顕著にあらわれている。…
※「遣明船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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