酒井郷(読み)さかいごう

日本歴史地名大系 「酒井郷」の解説

酒井郷
さかいごう

丹波国の地名。古代より多紀たき郡の歌枕として「さか井の水」「さかひの村の水」などを詠んだ歌が知られる(「定頼集」「夫木抄」など)。「祇園執行日記」観応元年(一三五〇)一二月一七日条に「去十四日堺ハカ野御敵、寄来守護代久下弾正在所不木合戦之処、御敵五六十人被討留」とあるが、この「堺ハカ野」は酒井波賀野はがの、「不木」はふきで、南朝側の酒井波賀野の敵が足利尊氏方の吹の久下弾正頼直を攻撃し、五、六〇人が討取られたという。応永三〇年(一四二三)一一月一六日の足利義持御教書および同月一八日の管領畠山満家施行状(石清水文書)によって、「多紀郡内酒井郷地頭職、同北庄下司職」などが善法寺宋清に宛行われている。


酒井郷
さかいごう

和名抄」所載の郷で、高山寺本で左加井、東急本でも佐加井と訓じ、名博本ではサカイとする。正倉院宝物胡粉絵浅縹布幕銘文(正倉院宝物銘文集成)に「上総国長狭郡酒井郷戸主丈部(床カ)(口)丈部里狛□□生部□ゝ生部子五百等輸調細布壱端長四丈二尺天平勝宝(八カ)歳十月」とあり、安房国が上総国に併合されていた天平勝宝八年(七五六)頃当郷に丈部・生部の部姓を名乗る者がおり、調として細布を貢納していた。「日本地理志料」は加茂かも川上流・中流域の現鴨川市北風原ならいはらから細野ほその宮山みややま大川面おおかわづら成川なりがわ横尾よこおにかけての地域、「大日本地名辞書」も「安房国誌」を引用し、北風原に酔酒の井の伝承があることからほぼ同様の地域に比定している。


酒井郷
さかいごう

「和名抄」宇佐郡一〇郷の一。諸本とも訓を欠くが、安房国長狭ながさ郡の同名郷には「左加井」(高山寺本)、「佐加井」(東急本)の訓がある。「太宰管内志」は「佐加為とよむべし」とし、「醴泉などの出たる処なるべし」とする。「豊前志」には「川辺村の小名に成れり。又、此の村に酒井を家の名に負へるもあり」とあり、また辛島からしま(現宇佐市)いずみ社を古く酒井社ともいったとして同社社地に「往昔、酒の湧き出でたること有りしが、飲める者、万病悉に、癒えし由云ひ伝へたり」と記し、郷域を駅館やつかん川の流域、現宇佐市川部かわべから辛島にかけての地と想定する。


酒井郷
さかいごう

「和名抄」東急本は津守つもり郷の次に記す。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「佐加韋」と訓を付す。「太宰管内志」は下井しもい郷を下酒井しもさかい郷であるとし、木部きべ笛田ふえだ出仲間いでなかま田迎たむかえ(現熊本市)など七邑をあてる。


酒井郷
さかいごう

「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」「日本地理志料」ともに近世の酒井村(現いわき市)を遺称地とする。「日本地理志料」は窪田くぼた白米しろよね大高おおだか瀬戸せと中田なかだ四沢しさわ関田せきた(現同上)の地をあげる。「大日本地名辞書」は「磐城古代記に、酒井とは、此地出蔵いでくら寺の醴泉に起れる名なり」と記す。現いわき市勿来なこそ町酒井の真言宗智山派出蔵いでくら寺には一木造・彫眼で豊かな量感をもつ木造明王形立像があり、九世紀にさかのぼる勿来関にかかわる遺品である。


酒井郷
さかいごう

「和名抄」東急本は「佐加井」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。のち郷域には、「亀山院凶事記」嘉元三年(一三〇五)九月二三日条に載せる同年七月二六日付書状に「越前国酒井庄」とみえる酒井庄が成立したと思われる。当郷(庄)の所在地を「荘園志料」「福井県史」などは一致して現今立郡今立町東庄境ひがししようざかい・西庄境付近に比定しているが、建久六年(一一九五)一二月三〇日付の官宣旨案(壬生文書)真柄まがら(現武生市)に関して「而件状不注国郡、只酒井東□□田坪付之由」とみえ、この「酒井」を酒井郷とすれば、真柄保との関係から現武生市上真柄かみまがら・真柄の西方に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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