野底村
ぬすくむら
[現在地名]石垣市野底
桴海村の北に位置する。西は東シナ海に面し、南部で野底崎、北端で野底石崎が海に突き出す。正保国絵図は野底崎を「野城崎」、野底石崎を「石崎」と記す。東は野底岳(二八二・四メートル)に連なる山地。南から吹通川・西浜川・カブリィマタ川などが西流して東シナ海に注ぐ。八重山島由来記に吹通川は「富慶堂川原」、カブリィマタ川は「嘉保里又川原」と記され、西浜川本流は南風大嘉手川原とされている。集落は吹通川河口の北約五〇〇メートル、現多良間集落南西の海岸沿いの台地にあったが、一九三四年(昭和九年)最後の一戸が新川に移転して廃絶(八重山歴史)。
野底御嶽は「琉球国由来記」に桴海村の御嶽とあり、古く村域は川平村属邑桴海村に含まれたと考えられる。野底の肥沃な広野は耕地不足と食料難に悩む黒島(現竹富町)の人々が出張耕作していたが、雍正一〇年(一七三二)黒島から四〇〇人を移住させて村立てをしたいと首里王府に願出た。王府ではこの地が平久保村・桴海村の中間に位置し、土地が広く津口もあり、用水の便もよいということで立村を許可、新城村(現竹富町)の二五人も加えて野底村が新設された(参遣状・八重山島年来記)。黒島では道を境に強制的に移住者を決めたと伝え、民謡「つんたら節」に「島別ておはられ(島を分けろと仰せられ)」「野よ底んはけられ(野底に分けられ)」「黒島ん残さり(黒島に残され)」と謡われるような男女の別離の悲劇もあった。
野底村
のそこむら
[現在地名]伊那市大字伊那部 野底
天竜川の東方、手良から流れ出る棚沢川が天竜川に合流する地点に開けた村。棚沢川は平時は水が涸れているが、雨期には氾濫する天井川で、天竜川も川筋が変わるので水害の多い村であった。
天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)によれば、笠原・伊那辺・芦沢などの近郷とともに外垣七間の頭役を割り付けられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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