改訂新版 世界大百科事典 「釜座」の意味・わかりやすい解説
釜座 (かまざ)
中世における鋳物師(いもじ)の座。鎌倉末の1289年(正応2)ごろには,京都三条町に釜座が成立している。もともと釜は遍歴する鋳物師によって造られていたが,中世に入ると定住する者も出はじめ,鍋,釜,鏡,鼎(かなえ)等を製作した。一方,梵鐘,仏像,鰐口,灯籠等は専門の職人が寺社の注文に応じて食糧や住宅を与えられて出張製作した。三条釜座は鐘から鍋,釜までを造ったが,とくに鐘と茶釜の製作にたんのうであり,文明10年(1478)銘の清水寺銅鐘,延徳3年(1491)銘の旧北野社銅鐘,永正14年(1517)銘の知恩院旧鐘は現存する三条釜座製作の鐘である。方広寺の鐘を鋳た名越越前少掾藤原三昌と弟の名越弥五郎,織田信長から〈天下一〉と称された茶釜作りの名人西村道仁らの名工を輩出した。道仁作の擬宝珠は,羽前羽黒山麓までもたらされている。
応仁の乱の間に三条釜座の分座が太秦(うずまさ)安養寺村にできたようである。釜座は蔵人所の供御人(くごにん)として,室町時代には諸役および五畿七道諸関以下の関銭の免除と,座人以外の商売の停止つまり営業独占権を禁裏から保証されていた。本所は薄(すすき)家であり,特権を保護されるかわりに釜や銭を納入している。釜座に対して鑰鞴公事が課されたとき,免除を願い許されたのは8人であり,これが座人であった。豊臣政権下においても営業独占権は安堵されているが,薄家の支配権は楽座令によって否定された。江戸時代に入っても特権は保護され,天下一の名声を保持した。しかし同業組合として出発した釜座町の惣町結合は,江戸時代には行政機構の末端となって地縁的結合の町へと姿を変えていく。
→釜師
執筆者:田端 泰子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報