810年(弘仁1)3月,嵯峨天皇によって設置された令外の官職。明治維新後に廃止されるまで,原則として各天皇の代ごとに改補,常置された。
当時,嵯峨天皇と平城上皇の間には,いわゆる〈薬子の変〉へと展開してゆく深刻な対立関係があり,嵯峨天皇は,側近を蔵人として殿上に近侍させることによって,みずからの体制固めを行った。これが蔵人所のはじまりである。設置当初の蔵人頭としては藤原冬嗣,巨勢野足,蔵人としては朝野鹿取,清原夏野,百済王勝義らの名がみえる。
その職掌は機密文書および訴訟のことであったとされるが,より具体的には,弁官局,衛府,式部省,中務(なかつかさ)省,春宮(とうぐう)坊等の実務官人を殿上に集中し,緊急事態発生の際には詔勅の速やかな伝達と機密保持をはかる一方,弁官における告訴の受理,式部省における人事,衛府の軍事力等を天皇の直接の指揮下に置き,同時に春宮の動向をも把握しようとするものであったと思われる。蔵人所の成立が,令制の諸官司に与えた影響は小さくないが,そのために太政官の機能が形骸化したというわけではない。蔵人所の職掌には内侍司(ないしのつかさ)のそれを拡大継承したと考えられる点が多い。
蔵人所は天皇家の家政機関としての性格を有するが,律令制的な経済基盤の崩壊とともに,ここにも経済的側面の機能が強化されてくる。この傾向は承和年間(834-848)ころよりみられる。さらに寛平・延喜(889-923)のころになると日次御贄(みにえ)貢進の制度の新設や畿内を中心とした大規模な御厨(みくりや)の設置など供御物貢進制度の大改革が行われるが,蔵人所はこれらの新制度の中心的な位置を占め,御厨子所(みずしどころ),進物所,内豎(ないじゆ)所,作物所等々,〈所々〉と総称される多数の内廷的諸機関をひきいて活発な活動を行うに至る。贄人(にえびと)たちの訴訟も蔵人所が裁定するようになる。ここに至って蔵人所は詔勅の伝宣,進奏,諸儀式への供奉,天皇の日常的な諸事,さらには必要物資の調達に至る殿上関係のすべてのことをつかさどるようになる。供御物貢進の体制は,その後11世紀後半以降再び大きく改革され,中世的な御厨と供御人(くごにん)の体制が成立するが,蔵人所はひきつづき供御人に対する裁判権を掌握し,その本家的な存在として,彼らの活動を保護する一方で,彼らの奉仕による収入を重要な経済基盤とした。
蔵人所には別当,蔵人頭,蔵人,非蔵人,雑色(ぞうしき),所衆,出納,小舎人(こどねり),滝口,鷹飼等の職員が置かれた。別当(1名)は蔵人所の総裁である。897年(寛平9)に藤原時平が任命されたのを最初とする。時として置かれないこともあったが,一上(いちのかみ)たる大臣が任命される場合が多かった。蔵人頭(2名)は蔵人や殿上人を指揮して常侍し,殿上関係の諸事を差配し,また天皇と太政官のパイプ的な役割を果たした。近衛中将や大弁,中弁を兼ねる場合が多く,これらを〈頭中将〉〈頭弁〉等と呼んだ。蔵人頭は殿上では位階の上下にかかわらず常に殿上人たちの首席に座を占めることになっていた。また参議昇進にもきわめて有利であり,大変な名誉職とされたが,同時に劇職でもあり,家柄,能力ともに兼ね備えた者でなければ任命されなかった。五位蔵人は蔵人頭を補佐し,六位蔵人も諸公事から天皇の朝夕の御膳に至る殿上の諸事に奉仕する。定員は五位,六位含めて8名。888年(仁和4)に至って五位蔵人の定員が2名と定められたが,院政期に入ると3名が常のこととなる。五位蔵人には近衛少将,衛府佐,少弁等が多く任命された。このうち,衛門佐と弁官を兼ねる場合には三事兼帯と称し,特別な名誉とされた。これも家柄と能力を要する職であったが,平安末期ごろより近衛少将を兼ねる者は激減し,衛門佐や弁官を経る名家流の人々が主として任命されるようになった。六位蔵人も六位でありながら昇殿を許され,五位蔵人とともに禁色をも許され,昇進にも有利であったため,六位層にとっては羨望の的であった。彼らは補任の次第によって順次叙爵してゆくのが例となっており,これを巡爵と称した。叙爵すると殿上を降りなければならなかったが,このような者を〈蔵人大夫〉〈蔵人五位〉等と呼んだ。彼らはその後,巡によって受領(ずりよう)となる資格をも有した。叙爵を嫌う者は,再び最末席の新蔵人に列せられることになっていたが,これを逆退と称した。10世紀以前には源氏を除くほとんどの公卿が六位蔵人の経験者であったが,藤原氏の主流の人々が五位直叙の特権を得るようになると公卿層の中の六位蔵人経験者の比率は低くなる。平安末期以降は名家の庶流および諸大夫層の多く就く職となった。《禁秘抄》によれば,公卿侍臣の子,非蔵人,執柄勾当(しつぺいのこうとう),院蔵人幷母儀(ぼぎ)蔵人,蔵人所雑色,成業の儒,所々蔵人判官代等から選任されることになっていた。非蔵人(4~6名)は蔵人見習いともいうべき者で,公事には奉仕しないが昇殿を許された。また雑色(8名)も昇殿こそしないが,これまた蔵人に昇進しうる者たちであった。いずれも蔵人たるにふさわしい家柄の子弟から選ばれた。所衆(20名)は侍層の六位の者から選ばれた。彼らは蔵人に昇進しえない。出納(3名)は,その名のとおり,出納・管理のことをつかさどったが,後には地下(じげ)の蔵人方のことをすべてとりしきるようになる。鎌倉時代以降,中原氏の一族である平田氏が世襲する。小舎人も出納・管理にかかわる。中世においては出納とともに蔵人所の経営に重要な役割を果たした。滝口は清涼殿後方にある滝口に候するところからその名がある。寛平年間にはじめて武士を滝口に候せしめ,内裏の警衛に当たらせたことに端を発する。最初は10人であったが,白河天皇のときに30人となり,その後20人と定められた。このほかに鷹飼が置かれ,遊猟用の鷹の飼養と管理に当たった。これら蔵人所の職員は,天皇一代ごとに改補されるのが原則であった。蔵人所の命令伝達には蔵人所牒(ちよう)や蔵人所下文(くだしぶみ)などが出された。
執筆者:玉井 力
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令外官司(りょうげのかんし)の一つ。天皇の家政機関。810年(弘仁1)嵯峨(さが)天皇は初めて殿上(てんじょう)の侍臣を蔵人所に置き、機密の文書などをつかさどらせた。蔵人所の新設は薬子(くすこ)の変と関係があり、平城(へいぜい)上皇方に機密が漏れるのを防ぐため、腹心の藤原冬嗣(ふゆつぐ)、巨勢野足(こせののたり)らを蔵人頭(くろうどのとう)に任命したといわれる。以後、もっぱら天皇に近侍して、詔勅を諸司に伝達し、令制(りょうせい)の内侍(ないし)、中務(なかつかさ)、少納言(しょうなごん)、侍従などの職務にも関与し、殿上の諸事を切り回すようになった。その職員には別当1人、頭2人、蔵人8人、非蔵人4~6人、雑色(ぞうしき)8人、所衆(ところのしゅう)20人、出納(すいのう)3人、小舎人(こどねり)6~12人、滝口(たきぐち)10~30人、鷹飼(たかがい)10人などがある。別当は897年(寛平9)に大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)がなったのが初見。当初は中納言以上の公卿(くぎょう)が任命されているが、のちには一の上(かみ)がなるのが一般である。頭は殿上の諸事を切り回す事実上の担い手で、四位の殿上人をもって任命した。弁官より選ばれたものを頭弁(とうのべん)、近衛次将(このえのじしょう)から選ばれたものを頭中将(とうのちゅうじょう)という。頭は劇務であったが、参議への昇進も早かった。蔵人は888年(仁和4)位階によって分け、五位蔵人2人、六位蔵人6人とした。平安後期には五位3人、六位5人となる。非蔵人は蔵人の事務見習いのようなもの。雑色は非蔵人とともに六位蔵人に進む。所衆は殿上の雑事に従事し、また雑色、小舎人らとともに諸使を勤める。出納は蔵人所から発給する牒(ちょう)、下文(くだしぶみ)などの文書を作成し、署名する。滝口は主として内裏の警護にあたる。
[渡辺直彦]
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内裏校書殿(きょうしょでん)におかれた令外官(りょうげのかん)。810年(弘仁元)3月設置という。平城(へいぜい)上皇と対立した嵯峨天皇が,弁官局・衛府・式部省・中務(なかつかさ)省などの実務官人を殿上に常侍させて,訴訟・人事・軍事などの実権を掌握し,詔勅の速やかな伝達と機密保持を図ったもの。その後は,宮廷社会の管理・運営を担う機関として機能し,令制以来の内廷諸官司や新設の宮廷諸機関である禁中の各所(ところ)を統轄し,その活動を支えるために禁野・御薗(みその)・御厨(みくりや)などを領有した。11世紀後半以降は,諸種の供御人(くごにん)の本所的存在としてその特権を保証するとともに,彼らへの課税を重要な財源とした。職員には別当・蔵人頭・五位蔵人・六位蔵人・非蔵人・所雑色(ところのぞうしき)・所衆(ところのしゅう)・出納(しゅつのう)・小舎人(こどねり)などがあり,蔵人所牒・蔵人所下文などの文書を発給した。
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…身舎は一部を塗籠(ぬりごめ)とし,書籍を中心とする御物を収蔵したので,一名文殿(ふみどの)とも称する。西廂には北に蔵人所(くろうどどころ),南に校書所をおく。蔵人所では収蔵の書籍の校定や漢籍の講書を行うことがあった。…
… 貴族の住いである寝殿造は,所有者の地位や財力によって建築の規模も棟数も大きく違ってくるが,共通して見られる特徴を要約すれば次のようになる。(a)主人の居所である寝殿,家族の居所である対屋(たいのや)や庭園観賞のための釣殿(つりどの),泉殿(いずみどの),内向の施設である蔵人所(くろうどどころ),侍所(さむらいどころ),随身所(ずいじんどころ),車宿(くるまやどり),台盤所(だいはんどころ)など,独立した建築群から成り立っている。(b)それぞれの建物は廊または渡殿(わたどの)でつながれる。…
…
[供御人支配と公家新制]
律令制の弛緩,変質,荘園公領制の形成とともに,この二つの支柱のあり方も大きく変化する。権門,寺社の占取によって狭められた山野河海に対する支配は,この時期には交通路に対する支配として機能するようになり,天皇はそこをおもな活動の舞台とする商工民,芸能民などの非農業民に対し,天皇家の直属機関として設置された蔵人所(くろうどどころ),検非違使(けびいし)等を通じてその支配を及ぼした。遍歴して交易に携わらなくてはならない商工民,芸能民は,それまでにかかわりをもっていた内蔵寮,掃部寮(かもんりよう),造酒司(さけのつかさ)等のいわゆる内廷官司や,御厨子所(みずしどころ),納殿(おさめどの)のような小官衙を通して,各地の関,渡,津,泊(とまり)等における課税免除,自由通行権の保証を求め,供御人(くごにん)の称号を得て過所を与えられたが,この過所を発給したのはこれらの官司,小官衙を統轄した蔵人所であった。…
※「蔵人所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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