安養寺村(読み)あんようじむら

日本歴史地名大系 「安養寺村」の解説

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]びわ町安養寺

富田とんだ村の西方の湖岸まで細く延びる村域で、南の益田ますだ村境で丁野木ちようのぎ川が湖に注ぐ。文明六年(一四七四)六月二二日、安養寺景盛が八段の地を、同一九年四月には安養寺景能が一段の地を竹生島ちくぶしまに寄進しており(竹生島文書)、地内には京極家家臣の安養寺勝光が拠ったとされる館があったという。享禄二年(一五二九)には当地住人が「鵜遣」をしたことに対し、竹生島早崎はやざきの地下人たちが先例がないとして訴えている。京極家ではこの訴えを入れ、以後安養寺の両所での鵜遣を禁じているが、この相論の際、安養寺側が早崎の「道堀」を切って抗議していることから、当地から早崎に至る水路があったことが知られる(四月五日付「京極家奉行人連署奉書」竹生島文書)

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]栗東町安養寺・安養寺一―八丁目

川辺かわづら村の東、葉山はやま川と金勝こんぜ川に挟まれた安養寺山北西麓平地に立地。足利義尚は六角高頼征伐のため長享元年(一四八七)一〇月四日坂本から数千騎の軍兵を従え当地鈎山安養寺に動座した(「長興宿禰記」同日条)。このとき義尚は父義政に「坂本ノ浜路ヲ出テ浪安ク養フ寺ニアリト答ヘヨ」との歌を送り、義政は「ヤカテハヤ国収リテ民安ク養フ寺ヲ立チソ帰ラン」と返歌した。当時安養寺は手狭で、五、六房があったといい(「蔭涼軒日録」一〇月九日条)、義尚は同年一〇月二七日には上鈎かみまがりの真宝坊の館に陣を移した(「長興宿禰記」同月二八日条)

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]尾島町安養寺

東は亀岡かめおか村、南は大館おおたち村、西は出塚いでづか村、北は粕川かすかわ村。さかい小泉こいずみ往還が東西に走る。観応元年(一三五〇)一二月二七日の足利尊氏下文写(正木文書)によれば「新田庄内木崎村安養寺義貞跡」が勲功の賞として岩松頼宥に宛行われた(新田町の→木崎郷

寛文郷帳では旗本津軽領で畑方のみ、雑木林があると記される。元禄郷帳では旗本河野領。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]鴻巣市安養寺

市縄いちのなわ村から元荒川を隔てた東にあり、同川左岸の低地と台地上を占める。北は屈巣くす(現川里村)、南西は元荒川を隔て足立郡鴻巣宿。埼玉郡おし領に属する。村名はかつて当地にあった寺の名に由来するという(風土記稿)。神奈川県立金沢文庫蔵の求聞持秘口決の奥書には、天福二年(一二三四)二月一二日「武州忍保安養寺」で書写したとある。寛永一二年(一六三五)の忍領在々御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、高五二〇石余。田園簿では田三二一石余・畑一九九石余、旗本内藤氏・佐久間氏・久保氏の三給。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]鶴来町安養寺町・安養寺・桑島町くわじままち

手取川扇状地扇央東部に位置し、東は柴木しばき村など。ごう用水西にし川が村内を北西流し、北端の二又ふたまたで北流する横江よこえ川と西流する吉名よしな川に分流する。「あんにょじ」ともいわれる。永禄九年(一五六六)一〇月六日の白山実蔵坊禅応書状(内閣文庫蔵曇花院殿古文書)によれば、「味智郷之内安養寺」の堂者が退転しているが、これは当地付近に所在したと思われる通玄つうげん(現京都市右京区の曇華院)末寺と考えられる。慶長三年(一五九八)の前田利家宛行状(小幡文書)に村名がみえ、一千二八三俵余が不破彦三に宛行われている。正保郷帳では高六三七石余、田方四一町二反余・畑方一町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六八四石、免六ツ一歩(三箇国高物成帳)

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]富山市安養寺・栗山くりやま、上新川郡大沢野おおさわの新村しんむら

熊野くまの川右岸に位置し、対岸は栗山村。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高八五九石余、田方五五町一反余・畑方二町二反余、新田高四五石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高六二五石、免四ツ六歩、小物成は野役六一匁・鮎川役一五匁。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高五二九石余・定免四ツ三歩六厘、新田高二〇石余・平均免八歩六厘余、定小物成は塩野役八三匁・簗役六匁・鮎川役四匁・鮭川役五匁・柳差一五匁余。所属組は清水しみず村と同じ。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]金井町安養寺

北は羽黒はぐろ山を経て金北きんぽく山山地、東は立野たての(現両津市)、西・南は吉井本郷よしいほんごう村。山付きの村である。吉井本郷村の才河内さいのかわちから発する河内川と同村中河内なかのかわちから発する中河内川が当村内を流れて地持院じじいん川となる。河内川は当村の羽黒はぐろ神社前を流れるので羽黒川ともいう。中河内川はひがし川ともいい、現在安養寺ダムにいったん堰止められてさらに南下して字棒の河原ぼうのかわらで羽黒川に注ぐ。地持院川は吉井本郷村と共有の善五郎ぜんごろう橋で吉井本郷地内へ入る。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]近江八幡市安養寺町・篠原町しのはらちよう上野町うえのちよう

北西流する日野川を挟んで池田いけだ村の南西に位置し、南はかがみ(現蒲生郡竜王町)。元和六年(一六二〇)仁正寺藩領となり、同藩領で幕末に至る。寛永石高帳では高四九七石余、慶安二年書上によると田三七八石余・畑屋敷二九石余・永荒堤切れ八九石余。日野川の氾濫により度々洪水に見舞われた。同川堤防の破壊は鏡村との境界、支流善光寺ぜんこうじ川が流れ込む地点でしばしば起こったため、明暦三年(一六五七)仁正寺藩主市橋政信はここに井上いのうえ堤を築いた。工事には総人数一千四四五人を動員、うち二八九人は同藩が負担し、ほかは藩領二四ヵ村に高一〇〇石につき六人・銀三分九厘を負担させた。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]新旭町安井川やすいがわ

西近江路に沿い、南は河原市かわらいち村、北は平井ひらい村。もと人家は平井村の清水せいすい山にあったが、織田氏の時代に現在地に移したと伝える。枝郷に新町しんまちがある。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)の「かいつ外、竹生寺領共ニ」のうちに「安よう寺」とある。天正一〇年(一五八二)一〇月六日の丹羽長秀知行宛行状(中川文書)によれば「高嶋新庄安養寺之内」一〇〇石が石崎源丞に与えられている。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]掛川市安養寺・淡陽たんよう光陽こうよう

さか川の右岸にあたり、宮脇みやわき村より北に入った山間の村。南東はその村。地内の白山神社が所蔵する永正一七年(一五二〇)五月吉日の年紀をもつ鰐口銘に「佐野郡山口鳴滝郷安養寺白山之鐘」とあり、戦国期の当地は鳴滝なるたき郷に含まれていた。文禄二年検地高目録に「安養寺」とみえ、高五六石余。元和五年(一六一九)以降は掛川藩領。正保郷帳では田方二九石余・畑方三〇石余。文政一二年(一八二九)の御高等書留によれば高五九石余、毛付高五〇石余の納辻米八二俵余、家数一四(本家一二・柄在家二)・人数六二、馬三。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]武生市安養寺町

おにヶ岳西北麓、天王てんのう川の一支流安養寺川がつくる小盆地に位置する。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高一四六五・二六六石、先高九八二石余・出分四八二石余。正保郷帳によると、田方一千三〇石余・畠方四三五石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領。文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、村高のうち五〇八・二九四石の蔵入地以外は、藩士の本多筑後・大谷綱次郎ら九名の分割知行地であった。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]新津市安養寺

早出はいで川と阿賀野川の合流点付近の氾濫原に位置し、西は下新しもしん村、南は羽下はが(現五泉市)。元和(一六一五―二四)の初め頃、村上藩主堀直寄の臣安養寺土佐の開発と伝える。正保国絵図に村名があり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳には高二三石五斗余とある。寛延四年(一七五一)村明細帳(伊藤家文書)によれば高四四石九斗余、反別九町六反余、御用漆木二四本・抓漆二四匁二分四厘・蝋実穂八二〇匁、家数二・人数一三。天保九年(一八三八)の村明細帳(同文書)には「当村屋敷畑は不及申、田畑とも過半川欠に相成候に付当時百姓残らず羽下村借地住居仕候、家数五軒、人数二拾一人」とあり、羽下村への借地移住を伝えている。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]久美浜町字安養寺

野中のなか村の南、三方を山で囲まれた小さな谷の中に集落をつくる。村名は村内の安養寺にちなむ。

慶長検地郷村帳に高一三一・四六石「安養寺村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で一四六石余となった(天和元年宮津領村高帳)。慶長五年(一六〇〇)には二五戸あったが、元禄四年(一六九一)の大洪水で村の形状は変わってしまったという(佐濃村誌)

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]印西市武西むざい

戸神とかみ村の西に位置し、寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図では南は印旛いんば沼に通じる水路に面する。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二九石余で、旗本本多領。翌一四年佐倉藩領となり、寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚では高三九石余、夫役永九三文余・夏刈野代永二五〇文。印西牧の牧付村で、享保一五年(一七三〇)野馬入場新田として開発が行われ、安養寺新田持添として二町七反余・高二石余があった(印旛郡誌)

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]竹田市九重野くじゆうの

緩木ゆるぎ川最上流、越敷おしき岳北麓の山門にある。村名は地内に同名の寺があったことにちなむと伝える。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。弘化物成帳では九重野組のうち、村位は中、免四ツ一分、田二一石余(二町一反余)・畑二二石余(三町九反余)・屋敷八斗余(八畝余)で、開田二斗余(一反余)・開畑二斗余(四反余)がある。

安養寺村
あんようじむら

[現在地名]十日町市貝野かいの 安養寺

信濃川左岸では市域の南端に位置する。集落は信州道沿いにある。貝野村(一部現中魚沼郡中里村)六ヵ村の一。正保国絵図に村名がみえる。天和三年郷帳には貝野村に含まれる。元禄五年(一六九二)の村明細帳(中魚沼郡誌)では家数三六・人数二二二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報