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鈴岡城 すずおかじょう

日本の城がわかる事典の解説

すずおかじょう【鈴岡城】

長野県飯田市にあった平山城(ひらやまじろ)。長野県指定史跡。室町時代中期、小笠原氏の流れをくむ鈴岡小笠原氏が居城としていた城である。北の毛賀沢川、南の伊賀良川にはさまれた標高約490mの河岸段丘上につくられた城で、複数の空堀に囲まれた本丸に二の丸と出丸のほか2つの外郭、西方の高地に遠見原要害を有する城郭である。その城域は東西300m、南北600mという大きな規模を持つ。信濃守護の小笠原氏は、14世紀、府中(現在の松本市)に拠点を置く府中小笠原氏(深志小笠原氏)、伊那郡(現在の飯田市)の松尾城を拠点にした松尾小笠原氏(伊那小笠原氏)、松尾小笠原氏から分家した小笠原宗政が興した鈴岡小笠原氏の3家に分かれ、小笠原一族の惣領職と信濃国守護の座をめぐって抗争を続けた。鈴岡城の築城は、宗政が松尾家から分家して鈴岡家を興したころといわれる。以来、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城となった。松尾小笠原氏が拠点としていた松尾城は、鈴岡城とは毛賀沢川が流れる深さ約60mの谷をはさんだ北側にあった。15世紀後半には3家の対立は激しさを増し、このころの鈴岡小笠原氏は本家の松尾小笠原氏に代わって伊那郡南部を治めるほど勢力を拡大させていた。そして、1489年(長禄3)には、鈴岡城主で鈴岡小笠原氏当主の政秀は府中小笠原氏(小笠原長朝)を急襲して府中を制圧し守護の座についた。しかし、1493年(明応2)、松尾小笠原氏の小笠原定基(光康の孫)は、対立関係にあった政秀を松尾城に招いて殺害したのち、鈴岡城を攻撃し落城させた。いったん廃城となった鈴岡城はその後再興されている。1554年(天文23)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が伊那郡に侵攻した際、松尾小笠原家の小笠原信嶺は武田氏に従った一方、鈴岡小笠原氏の小笠原信定は府中小笠原氏(守護家)の小笠原長時とともに武田氏と戦って敗れ、鈴岡城は落城。鈴岡小笠原氏は断絶した。この結果、鈴岡城は松尾小笠原氏の手に渡り、松尾城の支城となった。武田氏滅亡後、小笠原信嶺(松尾小笠原氏)は徳川家康に仕えたが、1590年(天正18)の家康の関東移封に伴って武蔵本庄に国替えとなり、鈴岡城は松尾城とともに廃城となった。現在、城跡のうち二の丸と出丸などは農耕地となっているが、かつての本丸を含む城域が、対岸の松尾城跡とともに松尾鈴岡公園として整備されている。保存状態は良好で、かつての城の原型をとどめており、中世の南信濃の平山城を知る上で貴重な手がかりとなっている。また、同公園には含まれていないが、かつての二の丸の大規模な空堀の遺構も現存している。なお、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城跡に行くことができる。JR飯田線駄科駅から徒歩約20分。

出典|講談社日本の城がわかる事典について | 情報

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