日本歴史地名大系 「松尾城跡」の解説
松尾城跡
まつおじようあと
五ヶ瀬川の北岸、
建久図田帳では土持太郎宣綱が弁済使職や地頭職をもつ所領として臼杵郡のうち
松尾城跡
まつおじようあと
松尾城跡
まつおじようあと
天文一八年(一五四九)島津氏の当主となる直前の貴久が、蒲生氏への押えとして当城を重視して新納忠元らの有力な家臣を入れ、当城の北側で蒲生勢と合戦があった(「新納忠元譜」旧記雑録)。
松尾城跡
まつおじようあと
松尾城跡
まつおじようあと
松尾城跡
まつおじようあと
松尾城跡
まつおじようあと
東流する
高橋氏は紀氏の流れをくみ、南北朝の兵乱では備中
松尾城跡
まつおじようあと
通称
明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「村ノ南方拾町山字松尾ニアリ、本城東西一町、南北一町四拾間 上城東西七間、南北七間(中略)松本氏之ニ居ル」とある。「伊予二名集」には「松尾城越智式部 黒川氏兼帯 或は城が森とも云ふ」とあり、「予陽郡郷俚諺集」には松本豊後守がいたとも記す。「小松邑誌」には「松尾砦安井享禄中黒河肥前守元春攻之砦主松本豊後守敗走シテ来見村ニテ自害
松尾城跡
まつおじようあと
天正五年(一五七七)轟城主大西備中守元武が志摩守らに松尾城を攻めさせたが失敗し、
松尾城跡
まつおじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報