鍋田村(読み)なべたむら

日本歴史地名大系 「鍋田村」の解説

鍋田村
なべたむら

[現在地名]南陽市鍋田

吉野よしの川扇状地の扇端部、なか村の西側に位置する。天正一三年(一五八五)北条段銭帳によると、一一月二八日「なへたの内千苅役」に対し、今村日向守が二五〇文、同二九日おとな新介が五〇〇刈役として一二五文、一二月一二日おとな平さへもんが三〇〇刈役として七五文をそれぞれ納めている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高五一六石余、免一ツ、家数二六(うち役家八、肝煎・小走二)、人数七八、役木として紅花・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣が三名いる。天明二年(一七八二)の村明細帳(戸田文書)によれば、高一千一五五石のうち給人分が二〇五石で、家数四一・人数二五一、馬二四・牛一〇。


鍋田村
なべたむら

[現在地名]野津西寒田ささむた 鍋田

黒坂くろさか村の北、野津川北岸にある。西は久原くばる(現犬飼町)。南西へ流下してきた西寒田川が西方で野津川に合流する。北東から南西へ日向道が通る。天正一四年(一五八六)からの豊薩合戦に際し、野津のキリシタン武士リアン(レアン)は妻子や三〇〇名のキリシタンとともに「鍋田というある城塞」に籠居して島津軍と交戦。島津軍の降伏勧告を拒否して同軍を撤退させた。その後リアンの指導により野津の三、四千人が城塞に集結、そのすべてがキリシタンで城塞中央には大きな十字架が建てられた。しかし城塞内で島津方へ投降しようとする者も現れたため、リアンと妻やわずかの家臣は城塞を脱出し臼杵うすきの城へ赴いたという(フロイス「日本史」)


鍋田村
なべたむら

[現在地名]山鹿市鍋田

東部を岩野いわの川が南流し、東南部で菊池川に合して西流、西は保多田ほだた村・麻生野あぞの村と接する。北部東西豊前街道が通り、七里の里数木があった。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田二五町二反八畝余・畠屋敷二二町五畝余・屋敷筆数一三、分米四六八石余。正保郷帳では高四六八石余、うち田三一五石六斗余・畠一五一石三斗余とある。近世は山鹿手永に属する。「国誌」には高五一〇石余、「東鍋田村八幡林村林村等小村有リ」とあり、「肥集録」にはほかに田園を記す。文政九年(一八二六)の山鹿手永書付によると竈数八二・人数四四〇、馬五五、水車一、藍瓶三本、石工二・馬口労一、一領一疋一・医師一・出小屋一・傘小脇差一・給人八。


鍋田村
なべたむら

[現在地名]豊田市鍋田町

ともえ川が松平橋の北で大きく東に湾曲する位置にある。簗山やなやま・鍋田・を結ぶ道路崖には、巴川断層が露頭している。字西にしには、中世の宝篋印塔が一基ある。字丸山の安産の神として広く知られる乳児守神社には、

<資料は省略されています>

とあり、「ナベタ」の地名がみえる。乳児守神社は、領主松平丹後守が娘の安産をかなえられたため毎年米三升を献納したといわれ(豊田市史)、天保一二年(一八四一)奉納の石灯籠も境内にある。


鍋田村
なべたむら

[現在地名]富山市鍋田・下赤江町しもあかえまち一丁目など

神通川と常願寺川に挟まれた平地中央に位置し、西は東下赤江村。北陸街道(巡見使道)東岩瀬ひがしいわせ町を結ぶ往来が通る。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二九三石、免三ツ八歩。以後幕末まで草高・免に変化はないが(天保一一年「高免帳」杉木家文書)、安政三年(一八五六)に四歩の引免が認められた(「島組手帳」同文書)


鍋田村
なべたむら

[現在地名]今別町鍋田

東と北は一本木いつぽんぎ村、南は大川平おおかわたい村、西は今別いまべつ村に接する。天保(一八三〇―四四)の頃までは一本木村・今別村の支配下であったが、大川平村の者が荒田を開墾してできた。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「家数八軒。田畑少し。農隙炭を焚薪を采る(中略)この村何の頃にか廃し、田畑山林みな今別・一本木両村の他に隷せしか、天保中大川平村の者荒田を墾開し、家居八戸を結ひ旧に復して全然たる格邑となりしかとも、数十年間今別・一本木両村の支配地たりしにより其の墾開せし地のみを本村に属し、其の余は三村入逢となり、各専に有することを得す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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