明治・大正期における国民の兵役義務に関して定めた法令。廃藩置県後,1万足らずの政府直轄軍である親兵のほかには旧各藩兵から成る4鎮台歩兵10大隊と19小隊・砲隊2隊の地方軍しかもっていなかった明治政府は,早急に統制ある常備軍建設の必要に迫られた。実現すべき兵制については,壮兵=職業兵制とするか,徴兵制とするか,民兵=国民軍制とするかについて議論があったが,陸軍大輔山県有朋の主導権のもとに徴兵制が採用され,1872年(明治5)11月に徴兵の詔・徴兵告諭,翌年1月に徴兵編成並概則を布告した。これが第1期の徴兵令である。徴兵令の目的は鎮台兵の徴集にあり,親兵改め近衛は壮兵制を維持することになっていたが,征韓論の分裂により鹿児島や高知出身の近衛兵の多くがやめたので,徴兵令によって徴集された兵員中から成績優秀者を近衛兵に選抜し,改めて5年間勤務させる制とし,85年に鎮台同様に徴兵令によることになった。
当初の徴兵令は兵役免役者以外の満17歳から40歳までの男子全員を国民兵役の兵籍に登録し,満20歳の男子を徴兵検査と抽選によって徴し,3年の全日勤務に服させる常備軍,常備軍を終わったのち年1度の短期勤務に服させる2年間の第一後備軍,勤務義務のない2年間の第二後備軍の計7年間の服役義務を定めた。1879年には常備3年,予備3年,後備4年の計10年の服役制のほか,欠員補充のための1年間の予備徴員が新設され,83年には現役3年・予備役4年を常備兵役とし,後備役5年とした。89年の改正で予備役4年4ヵ月,95年の改正で予備徴員は服役義務7年4ヵ月の第一補充兵役(90日間の軍隊教育を受ける)・第二補充兵役となり,国民兵役も現役・第一補充兵役出身の第一国民兵役とその他の第二国民兵役に分けられ,1905年に後備役を10年に延長し,07年に歩兵の2年在営・1年帰休制の採用により,現役勤務が短縮された。
当初の徴兵令は,官吏,陸海軍生徒,官立専門学校以上の生徒,洋行修業中の者,医術獣医術を学ぶ者などの国家支配層とその後継者,一家の主人,嗣子および承祖の孫,独子独孫,父兄に代わって家を治める者,養子などの貢租負担者とその後継者,代人料270円を払った富裕者を免役としたので,兵役の負担は中以下の農民層の二・三男にかかり,名目的養子などで兵役を逃れる者も多かった。1879年の改正で免役に平時だけの免役が設置され,嗣子,養子などの親の年齢が50歳以上となり,83年の改正で代人制廃止,免役は徴集猶予に,嗣子などの親の年齢が60歳以上に改められ,1年志願兵制度が創設された。
1889年,憲法制定にともない徴兵令は大改正されて法律となり,平時徴集猶予は廃され国民皆兵の原則が確立された。しかし,学生への徴集延期制,一年志願兵制,短期現役兵制などの高学歴者への特典が残された。1927年に徴兵令は兵役法に改められた。
→血税一揆 →徴兵忌避
執筆者:大江 志乃夫
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国民に兵役義務を課した法律。成立後まもない明治政府は、中央直属の軍事力をほとんど有しないままに、農民一揆(いっき)などの反政府行動に直面しなければならなかった。このため、中央集権国家の物理的基礎となるべき中央政府直属の軍事力の整備が急務となり、1871年(明治4)2月には御親兵が編成され、さらに同年8月には、旧藩の藩兵を召集して四鎮台が設置された。しかし、これらの軍事力の基礎となっていたのは封建的な身分秩序の内にある旧藩兵であったため、欧米列強の例に倣い国民皆兵の理念に基づく徴兵制の導入が要請され、1872年に全国徴兵の詔(みことのり)が発せられて、翌73年には徴兵令が布告された。この徴兵令には、官吏、官立学校生徒、戸主、代人料納入者などの兵役を免除する広範な免役条項が存在していたが、国内の支配体制の整備に伴って対外戦争の準備が日程に上り、大量の兵員を確保する必要が生まれてくると、これらの免役条項は、再三の改正によってしだいに制限され、1889年には徴兵令の抜本的改正が行われる。すなわち、この改正では、従来の徴集猶予制が廃止され、国民皆兵の原則の徹底が図られるとともに、徴兵忌避者に対する罰則(1か月以上1年以下の重禁錮、3円以上30円以下の罰金)が設けられ、その後の徴兵制の基本的骨格が確定された。さらに、同年2月に公布された大日本帝国憲法では、兵役が「日本臣民」の義務であると定められた。徴兵令は、その後、副次的な改正を経て、1927年(昭和2)の大改正によって兵役法が公布されるまで続く。民衆は、徴兵令の制定と同時に、各地で血税一揆とよばれる徴兵令反対一揆に立ち上がり、その後も、逃亡やさまざまな形での徴兵忌避が後を絶たなかったが、取締りの強化や軍国主義思想の社会への浸透により抵抗の余地はしだいに狭められていった。
[吉田 裕]
『大江志乃夫著『徴兵制』(岩波新書)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
国民の義務兵役制の大綱を示した太政官布告。1873年(明治6)1月10日公布。男子は満20歳で徴兵検査をうけ,3年間の常備軍(現役)に服し,除隊後も在郷軍人として戦時の動員召集をまつこととされた。布告は緒言・6章・付録からなり,そのうち常備兵免役概則は,官吏および官公立学校生徒,代人料上納者など広範な除外規定を有し,国民皆兵主義が貫かれていたわけではなかった。のち79年,83年,89年,95年,1904年などの改正で兵役年限の延長と免役条項の縮小が図られた。1927年(昭和2)兵役法と改称された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… 軍事機構としての鎮台は1871年4月23日,東山道(本営石巻),西海道(本営小倉)の両鎮台を置き,各藩兵を差し出させて兵部省の管轄としたことに始まり,8月20日に東京,大阪,鎮西(小倉),東北(仙台)の4鎮台と各鎮台管下に1ないし3の分営を置いた。徴兵令制定にともない,73年1月9日6管区鎮台表が定められ,東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本の各鎮台に14営所を設け,歩兵各1連隊を各営所に置き,その平時兵力3万1680人と定められた。この年東京鎮台で初めて徴兵が行われ,翌年大阪,名古屋,75年に6鎮台全部で徴兵が行われ,西南戦争当時には鎮台兵の大部分は徴兵に入れかわっていた。…
…旧体制に代わる新しい中央集権的な統治機構は,1871年の太政官制の整備をはじめ,同年の府県官制,県治条例,72年の大区・小区制,78年の郡区町村編制法による地方制度の整備,1872年以降の裁判所の設置などによって構築された。新しい統治機構を守る軍事・警察機構は,1872年の陸海軍両省の設置と73年の徴兵令の制定,73年の内務省警保寮設置,74年の警視庁設置によって整備された。治安維持の重要な手段である刑事法は,すでに1870年に新律綱領,73年に改定律例が制定され,さらに1880年には,フランス人のボアソナードによって起草された最初の近代法典である刑法および治罪法(刑事訴訟法)が制定され,82年から施行された。…
※「徴兵令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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