長小野村(読み)ながおのむら

日本歴史地名大系 「長小野村」の解説

長小野村
ながおのむら

[現在地名]香々地町上香々地かみかかじ 長小野

佐古さこ村の南東に位置し、竹田たけだ川が流れる。中世香々地庄のうちとしてみえる。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、見目弥左衛門尉手永の御蔵納分として高五九石余で、家数一五のうち本百姓・小百姓五、隠居・庭屋・牛屋一〇、男女各一二、牛三。同帳には別に高一五〇石の長小野村が記され、家数四〇のうち本百姓・小百姓一〇、隠居・庭屋・牛屋二九などで、人数は男三八のうち名子一、女二〇、馬三・牛一三となっている。正保郷帳では香々地庄に属し、田高八〇石余・畑高七四石余で、茅山有、半分日損所と注記され、新田があった。元禄郷帳では高一七七石余。享保二年(一七一七)の延岡藩領知目録写(牧野家文書)に村名がみえ、延享四年(一七四七)の同藩領郷村高帳(内藤家文書)では高一七〇石余、新田七石余。


長小野村
ながおのむら

[現在地名]犬飼町長畑ながはた

山内やまうち村の南、柴北しばきた川南岸にあり、西は小切畑こぎりはた(現大野町)。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳には永小野村とみえ、土師はじ郷に属し、田高六二石余・畑高三九石余、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一八五石余。安永七年(一七七八)には栗ヶ畑組に属し、同組大庄屋良太郎の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


長小野村
ながおのむら

[現在地名]野津町秋山あきやま 南長小野みなみながおの

吉岡よしおか村の北西、蛇行しながらほぼ西流する吉田よしだ川北岸にある。野津氏庶家長小野氏の名字の地。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には長小野村が吉岡村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高五三石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方二三石余・畑方三〇石余。正保郷帳に村名は記載されず、天手あまて村分に含まれる。


長小野村
ながおのむら

[現在地名]野津町千塚ちづか 長小野

千塚川最上流部にある。北は大分郡志津留しつる(現大分市)。下長小野村とも称された(「雑録」臼杵藩政史料・旧高旧領取調帳)。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には長小野村が平野ひらの村など九ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高二九石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳は安政やすまさ村共で田方二七石余・畑方一四石余、柴山などありと注記される。


長小野村
ながおのむら

[現在地名]竹田門田もんでん

緒方おがた川上流にあり、おか城下から玉来たまらい村を経て次倉つぎくら村に至る道に沿い、北東大津留おおつる村。正保郷帳では倉木くらき郷に属し、田方九四石余・畑方三八石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では門田組のうち、村位は上、免七ツ三分、田一一六石余(一〇町三反余)・畑四一石余(六町四反余)・屋敷五石余(五反余)で、開田四斗余(二反余)・開畑四石余(七町四反余)がある。


長小野村
ながおのむら

[現在地名]大分市萩尾はぎおおく杉原すぎばる

西流して大分川に合流する小筒井こつつい川中流域を占め、西は大塔おおとう村。下流から萩尾・奥・杉原集落がある。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に長尾村とみえ高四六八石余、吉野組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば、長小野村の田高四四二石余・畑高四一八石余。


長小野村
ながおのむら

[現在地名]清川村平石ひらいし 長小野・尾首おくび

木南切きなぎり村の西、奥岳おくだけ川北岸にある。正保郷帳に村名がみえ、田高三七石余・畑高二四石余、宇田枝うたえだ郷に属し、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では高九二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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