長橋村
ながはしむら
[現在地名]いわき市平 橋下・深町・梅本・小川田・童子町・堂ノ前・材木町・長橋町・研町裏・薬王寺台・新町・菅ノ沢
新川左岸にあり、磐城平城下を構成する四村の一つで、北は北目村、東は十五町目村、南の対岸は小島村、西の対岸は御厩村。磐前郡に属した。近世は磐城平藩領。明治一五年(一八八二)の調査(概説平市史)によると、当村に属する町場として橋下・深町・梅本・小川田・童子町・堂の前・材木町・薬王寺台・新町がある。
長橋村
ながはしむら
大谷村の西にあり、北は外浦に面する。垣内に坂仕山(坂石山)・末道山(末光山)・角間があり、外浦街道が通る。近世初頭は西海下浦に含まれる。天正一〇年(一五八二)―一五年分の西海年貢算用状写(友貞文書)の同一一年分に「なかはし 末光」とあり、末光は扶持一〇俵を与えられている。末光家は初期扶持百姓で、その由緒書(珠洲市史)によれば「川越仕事」を得意とし、前田利家の隠密として越後春日山(現新潟県上越市)に上杉氏の動きを探るために派遣されたという。
長橋村
ながはしむら
[現在地名]郡山市熱海町長橋
上伊豆島村の西、阿武隈川の支流藤田川の上流域山間部に立地。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に長橋とみえ、高三〇〇石。宝暦一〇年(一七六〇)の二本松領郷村高辻帳(福島県史)でも同高。「積達大概録」によれば、村域は東西二〇町・南北一八町、本田高三〇〇石(免四ツ五分)、新田高九二石余、家数六三(町家三三・反田六・一之関八・小倉二・大穴四・五十内三・後庵六・南浦二。合計合わないが史料のママ)。安政四年(一八五七)頃の御領内惣高之寄大略(福島県史)では、田高三一七石余・畑高七五石余。
長橋村
ながはしむら
[現在地名]五所川原市長橋
十川下流左岸に位置し、対岸の川山村と渡しで結ぶ。西は種井村、南は新宮村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳に田方五八町四反二畝一〇歩・畑方一三町三反五畝一歩、田畑屋敷合せて七一町七反七畝一一歩、村高五一一・六六一石、郷蔵屋敷、漆木四本とある。寛永年間(一六二四―四四)から開発が始まった五所川原新田の一つで、天和元年(一六八一)五所川原遣へ入った(五所川原町誌)。元禄三年(一六九〇)には広田組に属し、村位は下で、家数二一、うち庄屋一・百姓一七・新田百姓一・水呑二とある(平山日記)。
長橋村
ながはしむら
[現在地名]米沢市六郷町長橋
一漆村の北に位置し、鬼面川扇状地西端平地の同川の湧出地帯に立地。誕生川が地内西端を北流。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「なかはし」とみえ、一九貫七七五文を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、下長井長橋郷内で、横尾新十郎が竜泉院分「いしつか在け」「ミとう在け」「なかの在け」「にしの在け」「うつきた在け」「あしろ在け」、富田主計が「ミたう在け」をそれぞれ与えられている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高六一五石余、免三ツ五分、家数二二(うち役家五、肝煎・小走二)・人数六一。
長橋村
ながはしむら
[現在地名]村松町長橋
中野橋村の北、牧川の氾濫によって形成された低湿地に広がる。東は笹野町村、北は中名沢村。西の中村とは耕地が入組む。元和五年(一六一九)村上藩主堀直寄より家臣の富岡八郎左衛門に宛てた知行宛行目録(富岡行雄氏蔵)に「菅名組長橋村之内」高八八石六斗余とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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