昭和期の洋画家
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洋画家。山口県長府町に生まれる。1929年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。それ以前に大阪の信濃橋洋画研究所に入り,小出楢重に洋画を学んでいる。29年から32年まで欧米に遊学し,滞仏中の30年にサロン・ドートンヌに入選した。帰国後二科展に出品したが,34年新時代洋画展を興し,37年には村井正誠,山口薫,浜口陽三らと自由美術家協会を結成,以後同協会展に抽象絵画を発表し,日本における抽象絵画発展に大きな役割を果たした。戦後は著作活動にも従事するとともに,イサム・ノグチらと親交を結び,日本の前衛美術の海外紹介にも尽力する。52年に渡米しニューヨークで個展を開催,一時帰国後再渡米しオークランドのカリフォルニア美術大学,サンフランシスコのアメリカ東洋文化研究所で東洋美術と禅を講じた。代表作に《蝶の軌跡》(1923),《交響詩,晴日》(1951)など,著作に《アブストラクト・アート》などがある。サンフランシスコで没。
執筆者:三輪 英夫
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洋画家。山口県長府(現下関(しものせき)市)生まれ。ほどなく一家は神戸に移住。高校時代に大阪の信濃橋(しなのばし)洋画研究所に入り、小出楢重(こいでならしげ)に師事する。1929年(昭和4)東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業し、同年アメリカを経てヨーロッパ各国へ遊学。サロン・ドートンヌに出品、抽象絵画の洗礼を受けて32年帰国した。同志と新時代洋画展を結成、さらに37年自由美術家協会を創立するが、しだいに茶道、禅、俳句、写真に関心を移す。第二次世界大戦前から抽象絵画を制作し、戦後は木版、拓版、水墨の作品を多く制作している。54年(昭和29)日米抽象美術展の代表として渡米し、翌年一時帰国後、サンフランシスコ美術大学客員教授として再渡米、昭和32年3月11日同地で客死。代表作に『蝶(ちょう)の軌跡』『狂詩曲漁村』『自然』『天体と人』ほかがある。
[小倉忠夫]
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