水墨という用語は,中唐のはじめ大暦年間(766-779)の進士で画家でもあった劉商が,松石図について詠んだ詩の中にみられるのが最も古い。唐末五代(10世紀)初めの画家荆浩が《筆法記》において,〈水暈墨章は我が唐代に興る〉というのがその内容であろう。しかし中国では水墨画という用語はきわめてまれで,墨竹など特殊な画風を指す場合が多い。唐の中ごろから起こった絵画の変革は,六朝・隋・唐の中世的・貴族的絵画に対する,新しい近世絵画の出発点となった。唐末から五代を経て北宋において一応の完成を遂げる近世絵画には,多かれ少なかれいわゆる水墨画的性格があるので,ことさら水墨画と呼ぶ必要がないともいえる。
水墨画出現の状況をいきいきと伝えるのが張彦遠の《歴代名画記》である。張彦遠は中世の正統的な絵画観,つまり線描を根底とする絵画観に立ち,絵画史の展開を線描の発達をもとにして上古は素朴,中古は繊細,近代は豪放としてとらえ,近代すなわち盛唐玄宗朝(712-756)の呉道玄において最高の絵画が成立したと考える。それに対して現代,つまり張彦遠の同時代の絵画は,錯乱して趣がなく汚いという。その非難の対象となったものは,墨を口に含んで吹きつけて雲を描く吹雲という技法や山水画家の用いる潑墨といった技法で,その理由は線がないということであった。実際このころ,巷間で破墨とか潑墨とか呼ばれる技法が流行したようで,それらは山水樹石を主題としてとりあげ,用墨を重視して用筆すなわち線描を軽視ないしは否定するような傾向があった。中世絵画にあっては人物画が主題の中心を占め,山水画が独立して描かれることはまれで,山水や樹石は人物画の背景として図式的・装飾的に描かれるのが普通であった。山水画が写実的になったのは盛唐になってからで,張彦遠は呉道玄や李思訓・李昭道父子によってそのような変革が達成されたというが,さらにすすんだ山水画が,破墨を用いる張璪や王維,潑墨を用いる王黙らによって描かれた。
潑墨とは墨をはねちらすこと,破墨とはおそらく画面の素地を塗り残して外暈(そとぐま)で山や雲を描くことではないかと思われるが,このような技法は公衆の面前で制作過程を誇示するため,はだぬぎになり酒をあおって手足や頭髪に墨をつけ,それを踊歌しつつ画面にぬりたくるといった奇矯なやり方で発揮されることもあったらしく,張彦遠は王黙について風顚酒狂といっている。張彦遠はこのような新しい絵画を汚いといって否定するのであるが,山水樹石という主題に対しては深い関心を寄せ,ひいては水墨画についてもその制作心理の面で共感を寄せているのであり,ここに張彦遠の過渡期的な特色がよくあらわれている。先に挙げた張璪は同世代の王維とともに破墨を用いて描き,劉商の師でもあるが,張彦遠にとっても一族の先輩にあたり,その絵画理論から大きな影響を受けたらしい。張璪は外師造化・中得心深をいうが,張彦遠も山水画における性と境の一致をいい,ここで初めて形似すなわち写実的描写だけでなく,形似と写意あるいは心と表現といったことが問題となってきたのである。水墨画という技法,山水画という主題は,このような問題をめぐって展開するのである。
中世にあっては一義的に決定される輪郭線と,そこに施される固有色が絵画の構成要素であり,絵画は明晰な形と色をもった物,とくに人物を描くためのものであった。ところが新しい水墨画は,形と色とを墨の広がりと濃淡におきかえ,形と色とを相対化して,物を描くのではなく,物と物との連関を,すなわち空間とか世界といったものを描くのであり,画家の心情によって秩序づけられた全体が山水画なのであり,樹石はそのような世界に入ってゆく足がかりとなるものである。近世的自我はこのような世界をパートナーとしつつ,心と表現との間に果てしなき循環を繰り返すのであり,水墨画における制作過程の重視や非完結的性格がそれに対応する。
荆浩の《筆法記》は現存する最古の水墨画論で,主題としては松石図を論じている。伝統的な謝赫(しやかく)の画の六法に対して,新しい水墨画に適合するように修正された画の六要を主張し,人物の写実的描写のうちに対象の生命感と画家の心意の幸福なる調和をみる気韻生動に対して,気韻を気と韻に二分して気を画家の意に韻をその表現に配当し,山水画における気韻を論じた。また骨法用筆と随類賦彩,すなわち形と色を,筆と墨すなわち線描と墨の広がりの二極におきかえ,その間に多様なタッチの世界とでも呼ぶべきものを予想し,これを筆墨積微といっている。また破墨,潑墨を用いる画家が好んでとりあげた奇樹怪石を,節度ある穏やかなものに置きかえ,用墨と用筆との調和融合を主張し,水墨画の豊かな前途を予見している。
水墨画の技法を代表するのがタッチの世界で,これは皴法(しゆんぽう)と呼ばれ,各地の風景の特徴や画家の心情の違いによってさまざまな皴法が生みだされ,それらはしばしば典型化され,命名され,公式化される。概していえば筆すなわち線描は客観的描写を,墨は主情的表現を象徴するもので,水墨画の世界はこの筆墨二極間に成立する楕円にも比せられ,そこに多様な皴法が展開されるのである。北宋の諸家,たとえば郭若虚の《図画(とが)見聞志》はそれを落筆,皴淡,留素借地とし,総称して破墨の功といい,郭煕の《林泉高致》は筆墨の間を斡淡,皴擦,渲,刷,捽,擢,点に分け,韓拙の《山水純全集》は皴払は多端で一点一画に諸家の体法のあることをいい,披麻皴,点錯皴,斫砕皴,横皴,連水皴という命名をあげている。
水墨の技法は元来山水画のものであったが,やがて人物画にも応用され,樹石を描く皴法と人物の衣文の皴法とは同一視された。《歴代名画記》や朱景玄の《唐朝名画録》などにみられる唐代のランクづけでは正規の絵画に入らない逸格とされた水墨画は,北宋初の黄休復の《益州名画録》では逆に最高の画品をもつものとされ,その画家孫位(9世紀末の人)は松石だけでなく人物,動物も描いたという。宋代以降は線描にも彩色にも水墨画的な感覚が働いていると考えるべきであろう。
→山水画
執筆者:山岡 泰造
日本では鎌倉時代の中ごろ,中国から禅宗が移入され,南北朝期になるとこの禅的精神をあらわす手段として描かれた絵画は,しだいに従来の著色画から墨一色によって心象を表出する水墨画へとすすんでいった。禅宗とともに移入された中国宋・元時代の水墨画は,院体画としては馬遠,夏珪,禅林所縁画家としては牧谿,玉澗などの作品である。主題は禅宗祖師の画像や禅機図,儒道仏三教に関連した道釈画,白衣観音,そして中国の名勝や老荘思想を背景とする自然の風景を理想化した山水であり,自然観の象徴としての花鳥などであった。
日本における初期の水墨画は,禅僧の余技に発するもので,黙庵,可翁,良全,鉄舟,愚谿,梵芳(ぼんぽう)などをその作家としてあげることができる。15世紀になると,五山を中心とした禅寺所属の画僧が活躍を始める。東福寺には明兆および明兆一派の一之(いつし),霊彩,赤脚子らがおり,相国寺を中心とする如拙,周文,宗湛は足利幕府御用絵師の地位を得,彼らは岳翁や松谿といった周文派の画人たちとともに,中国画の様式にそれぞれの個性を発揮して日本的水墨画を完成させていった。なかでも雪舟は渡明の機会をもち,禅の精神を画中に求め,自己の様式を確立した。一方,足利将軍家の唐物奉行を務めていた同朋衆の中から阿弥派が出現し,文芸全般を育成して,後世の日本的美意識の基盤をつくった。狩野正信は幕府御用絵師の地位を獲得,2代元信以下永徳,山楽,探幽と続く狩野派は大和絵の伝統をもとり入れ,漢画をして後世の日本画壇の主流たらしめたのである。戦国時代,京都の中央画壇は崩壊し,地方大名の庇護下に分散,土着化して地方様式を形成した。雪舟の後継者である西国の雲谷派,能登出身の長谷川等伯,そして等春は〈牧谿-雪舟〉を祖型とし,友松以下の海北(かいほう)派は梁楷を祖型に一派を形成した。東国では鎌倉を本拠に初期水墨画の伝統をふまえた仲安真康や祥啓一派が,関東,東北に土着化する。なかでも雪舟に私淑しながら個性を発揮した雪村は,戦国地方画壇における典型的な逸材のひとりである。そして江戸時代中期,狩野派に反し中国南宗画風を受容した大雅,玉堂,蘆雪などの文人的指向は,宗達・光琳派の〈たらし込み〉技法をとり入れて水墨画の和様化を進め,幕末の富岡鉄斎に至って水墨画は日本的集大成をみたのである。
執筆者:衛藤 駿
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東洋絵画の一形式。中国を中心に朝鮮および日本など東アジア文化圏で流行し、独特の発展をみた。墨を主顔料に、これの濃淡や潤渇の度合いによって、人物や動物、山川草木など森羅万象を描き出そうとしたもので、淡彩を施す場合もあるが、基本的にはすべての形象が墨一式で表現された抽象的かつ象徴的な絵画をいう。
彩色しない、墨を基調にした絵画、いわゆる墨絵には、水墨画とは別に、白描画(はくびょうが)(白画(はくが))とよばれる画法があり、これは墨の描線を主にした輪郭線本位の絵画で、中国では漢、魏(ぎ)以来の長い伝統をもつ。水墨画は、この白描画の描線の発達とも複雑に関係しながら唐時代(618~907)に発生をみ、墨の濃淡やぼかしによって面的表現を目ざしたところに特色がある。水墨画ということばは、唐代末期すでに張彦遠(ちょうげんえん)の『歴代名画記』に使われているが、その意味はおそらく、唐末に荊浩(けいこう)がその著『筆法記』のなかで述べた「水暈墨章(すいうんぼくしょう)」画と同義と考えられ、文字どおり水で暈(くま)どり墨で章(あや)どった画(え)のことである。
水墨画の基本的描法として破墨(はぼく)と溌墨(はつぼく)の2種があり、これら二つの用墨法についてはさまざまな解釈が行われている。破墨とは、墨をもって墨を破ることで、淡墨で大体を描いてその上に濃墨を加え、濃淡の差やぼかしなどによって立体感や生動感を表現する技法であり、これに対し溌墨は、輪郭線を無視して画面に墨を溌(そそ)ぎ、一気に形体を表すとともに、墨の濃淡と勢いとによって生動感を表す技法である。前者が多分に線的で形態把握を主眼とし、どちらかといえば伝統的な骨法用筆に依存しているのに対し、後者はむしろ面的で、水暈墨章の名にふさわしい。
水墨画が彩色画から独立して成立するためには、当然そこに絵画観そのものの重大な変革があった。『歴代名画記』が唐代初期の画家殷仲容(いんちゅうよう)の画を評して「墨を用いて色五采(ごさい)をかねた」と述べているように、墨一色の絵画を認め、しかも実際には濃淡の差はあるものの黒一色で描かれたものを精神的には五采すなわち彩色画であると観念し、了解する鑑賞態度がなにより必要とされたのである。こうした鑑賞態度の変化と、前述した破墨・溌墨2画法の成立・融合とによって墨のみの微妙な表現が可能になり、やがて唐末五代に写実的山水画が生まれ、ついで宋(そう)・元時代に至り水墨画は全盛期を迎え、深い精神性をもったもっとも東洋的な絵画表現として完成をみるのである。
一方、日本における水墨画は、中国の水墨画の成立をうけ、早くも天平(てんぴょう)時代に『鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)』が制作され、輸入された唐代の水墨画法の一端をかいまみることができるが、本格的に制作されるようになったのは、鎌倉時代に入って、宋・元の水墨画法が移入されてからである。その初期には禅宗と結び付いて享受され、黙庵(もくあん)、可翁(かおう)、明兆(みんちょう)、如拙(じょせつ)、周文(しゅうぶん)など僧籍をもったいわゆる「画僧」によって制作され、やがては五山文学の隆盛とともに「詩画軸」が大いに盛行した。そして雪舟の出現によって日本的水墨画の完成をみる。また足利(あしかが)将軍家をはじめ武人の支持と相まって、幕府の御用画師となった小栗宗湛(おぐりそうたん)・宗継(そうけい)父子や狩野正信(かのうまさのぶ)・元信など俗人画家も現れた。さらには祥啓、雪村などの地方画家も活躍し、ここに水墨画は全国的な広がりのなかで幅広く制作、享受されるようになった。そして桃山、江戸時代の大画面金碧(きんぺき)障壁画の成立に大きく寄与し、狩野、長谷川(はせがわ)、雲谷(うんこく)、海北(かいほう)など各画派を通じて大いに描かれた。また滋潤な墨色のなかに日本的情感を盛り込むことに成功した宗達、光琳(こうりん)などの活躍も忘れてはならない。なお現代では、水墨画の白と黒の世界における表現主義的傾向や精神性が世界的視野において再認識され、新たな形式の水墨画が模索されている。
[榊原 悟]
『矢代幸雄著『水墨画』(1977・岩波書店)』▽『松下隆章著『日本の美術13 水墨画』(1967・至文堂)』▽『田中一松・米沢嘉圃著『水墨美術大系1 白描画から水墨画への展開』(1978・講談社)』
墨で描かれた絵画。とくに墨線による白描画(白画)に対し,墨の暈(ぼか)しや滲(にじ)み,筆の肥痩(ひそう)をもつものをいう。墨の濃淡と筆法によって万象を表現する東洋画独特の絵画様式。中国盛唐期に山水画を中心にうまれ,北宋時代に基礎が確立され発展した。日本へは鎌倉中期に禅宗が中国から渡来し,その禅宗寺院の法具として入ってきた。そのため南北朝期は道釈人物画や頂相(ちんぞう)が多く,可翁(かおう)・愚渓(ぐけい)・明兆(みんちょう)らの画僧が現れた。室町時代に入ると五山系の画僧が活躍,山水画や花鳥画が盛んになった。相国寺の如拙(じょせつ)・周文(しゅうぶん)・雪舟,周文を継いで室町幕府の御用絵師となった宗湛(そうたん),大徳寺の蛇足(じゃそく)などが中国の様式を巧みに消化した。なかでも雪舟は力動的な筆致と確固たる構築性をもって自己の画風を築いた。戦国期になると地方にも広がり,常陸国の雪村など,雪舟の画風を継ぐ画家や武人画家が各地に現れた。狩野派は漢画とやまと絵を融合させた大画面様式を形成して,水墨画の一面を開いた。やまと絵系である琳派の画家も,水墨画の日本化に大きな役割をはたした。江戸中期以降,中国南宗画の影響をうけた池大雅(いけのたいが)・蕪村(ぶそん)・浦上玉堂などの画業も,同様な観点からとらえることができる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
… 宋代の美術界で主導的な地位を占めたのは絵画であった。六朝の書,唐の詩,宋の画と評されるように,中国絵画史のなかで最高の評価を得た宋代の絵画を特徴づける要因として水墨画の手法のめざましい発達,主導的な題材の道釈人物画から山水画への移行,画家と鑑賞者の両者にみられる文人意識の増大という三つの現象を指摘できる。人物画の分野では唐代に頂点に達した大画面形式の道釈人物は北宋前期の職業的な画家たちによって継承されたものの,形式化し衰退していく傾向をみせたが,北宋末の李公麟が文人趣味にあう白描画風の人物画を再興し,この分野に鑑賞絵画としての新生命を吹き込み,南宋期の禅機画盛行の出発点となった。…
…これは自己の能力の広大無辺への確信であり,そこに生まれるのは中世の趣味論的芸術論にかわる天才的芸術論である。この傾向を最もよくあらわす新しいジャンルとしていわゆる水墨画がある。8世紀から始まった水墨画は,中世の美しい形と固有色の世界を破壊し,それらをモノクロームの諧調の中に相対化して,すべての物を精神のパースペクティブの中に秩序づけようとする。…
…仏像の様式は宋代を境に彫刻,絵画とも世俗化に向かい,それに代わって主座を占めたのは士大夫・文人の高度に理想主義的な芸術観に支えられた書画の分野である。それを最も特色づけるものとしての水墨画は,文人社会と密接な関係にあった禅林でも流行し,日中の禅僧の往復がその導入に大きな役割を果たした。 唐代絵画の色彩性を独自に発展させたこれまでの日本絵画の伝統にとって,水墨画の手法は,さほどなじみやすいものであったと思えない。…
…鎌倉彫や沈金(ちんきん),古瀬戸の灰釉,鉄釉陶器などがその例であるが,重要なのは,宋・元の唐絵の模倣・学習による国産唐絵(漢画)の普及である。黙庵霊淵,可翁,鉄舟徳済,無等周位(1346‐69),良全ら初期の唐絵画家が学んだのは,中国禅僧の余技としての水墨道釈画,細密な頂相,浙江省の民間絵師による著色の羅漢画などさまざまだが,なかで水墨の技法の摂取が水墨画という新しい表現の分野を発足させた。黙庵や可翁の描く布袋図,寒山拾得図の生気ある表現には,元の禅僧におとらぬ墨戯の精神が発揮されている。…
…蘭の名品番付や栽培法を書いた本も多く,中国風に《易経》や《史記》の形に倣った《蘭易》《蘭史》などの書もある。南宋の遺臣鄭思肖(所南)が土をつけぬ蘭を描いて以後,水墨画の蘭は士大夫のたしなみの一つともなり,《芥子園(かいしえん)画伝》でも梅菊竹とならぶ四君子の一つとして蘭譜が作られている。【梅原 郁】
[伝承と流行]
ランは英語でorchis,orchidと二通りに表されるが,前者は主として温帯地方に自生するハクサンチドリ属を指し,後者は熱帯産や温室栽培の美麗な種を指す。…
※「水墨画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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