改訂新版 世界大百科事典 「門戸開放主義」の意味・わかりやすい解説
門戸開放主義 (もんこかいほうしゅぎ)
Open Door Policy
1899年から第2次大戦までアメリカの対中国政策の基調となった原則。その淵源は,19世紀中葉以降アメリカが主張した最恵国待遇に求められるが,門戸開放のスローガンは19世紀末イギリスで流布していた。当時,ヨーロッパ列強による中国分割という情勢のなかで,その伝統的な中国貿易の支配を脅かされたイギリスは,機会均等の原則の宣言を望んでいたが,みずから長江(揚子江)流域に広大な権益を保有する関係から,アメリカがイニシアティブを取るよう誘いかけた。1899年アメリカの国務長官J.M.ヘイがイギリス,ドイツ,ロシア,のちに日本,イタリア,フランスに送付した第1次通牒は,中国海関勤務のイギリス人A.ヒッピスリーと相談して国務省極東専門家ロックヒルWilliam W.Rockhillが起草したもので,現存する〈勢力範囲〉は認めつつも,各域内における通商上(関税や港税,鉄道運賃面)の平等を要請した。その背景には,米西戦争(1898)の結果フィリピンを領有して中国市場進出をうかがうアメリカ実業界の圧力も働いていたが,アメリカ政府は経済的権益よりも,極東における勢力均衡を重視した。1900年,義和団事変の後,中国分割の加速化を恐れ,ヘイは同年7月第2次通牒を各国に送付,(1)中国全土に対する機会均等の適用,(2)中国の〈領土と行政の保全の保持〉を強調した。以後アメリカの極東政策は,潜在的中国市場への進出をめざす第1次通牒と,政治色の濃い第2次通牒との間を動揺,その定義の曖昧(あいまい)さのため紛糾を招いた。T.ローズベルト大統領は,ある程度門戸開放原則を譲歩しても日本との平和共存をはかろうとしたが,後継のタフト政権は〈ドル外交〉を強行して日本と対立した。〈二十一ヵ条要求〉(1915)の際,ウィルソン大統領は〈中国の主権のチャンピオン〉として日本の大陸進出に反対したが,石井=ランシング協定(1917)では曖昧な妥協を余儀なくされた。門戸開放主義はワシントン会議(1921-22)の九ヵ国条約の中で,はじめて正式に成文化された。1931年,満州事変以後,日本による門戸開放違反をめぐり日米対立が激化していく。しかし,アメリカは同原則,あるいは限られた中国権益を守るため日本と戦争する意思はなかった。日米開戦の直接的原因は,主として中国をめぐる対立よりも,1940-41年の世界危機の文脈の中で解明すべきであろう。
執筆者:麻田 貞雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報