岡山藩設立の郷校。閑谷の山間部を南流する
石門から北に一キロほど進んで
寛文六年(一六六六)和気郡
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岡山藩領内の藩設立の郷学校。1666年(寛文6)藩主池田光政は領民教化の一環として和気郡伊里村閑谷(現,備前市)の地に学校設立を計画し,68年手習所を開設したのに始まる。75年(延宝3)各地の手習所を統合して規模を拡張し,正式に閑谷黌(しずたにこう)と称した。藩主の特別の保護により,講堂,聖廟,文庫などをもち,藩校に比肩しうる規模を備えた。江戸時代学校建築の代表的遺構で,講堂は桁行7間,梁間6間の入母屋造,1701年(元禄14)の改造になる。内部は広い板敷き,棹縁天井を張り,屋根に備前の赤い瓦をふく。また学校は低い石塀で囲まれている。同校には,近在の武士だけでなく名主層およびそれに準ずる農民子弟の学習も許された。教育内容は,入門程度から中等程度までの漢学であった。1870年(明治3)藩学校となり,77年いったん廃校となったが,84年校内に中学校程度の私立学校が設立され,のちに岡山県立閑谷中学校,県立閑谷高等学校などとなった。現在は県の青少年教育センターが設けられている。同校およびその周辺は国の特別史跡,講堂は国宝に指定されている。
→郷学
執筆者:佐藤 秀夫
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備前国岡山藩の郷学。はじめ閑谷学問所,明治期以後閑谷精舎(しょうしゃ)・閑谷黌(こう)ともいった。1670年(寛文10)和気(わけ)郡伊里村閑谷(現,岡山県備前市)に設立。藩主池田光政が設置した寮内123カ所の手習所の維持の困難さをみて,学校奉行津田永忠に命じて永世継続の方法をとらせた。社倉米制度・学校領・下作人制度を定め,1701年(元禄14)完成。庶民子弟の教育を主とし,寄宿および通学。初級から中等程度の漢学(朱子学)・習字・算術を教授。江戸時代の学校建築の代表的遺構で,国特別史跡。芳烈祠(ほうれつし)・聖廟(せいびょう)・講堂・小斎(しょうさい)・飲室等の建造物や石塀が保存されている。1870年(明治3)藩学校となり,のち廃校。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1654年(承応3)の大洪水で危機に直面したとき,地方(じかた)知行制度の大変革を断行して,家臣統制の強化と領民直接支配の促進をはかり,仁政理念に基づく農政を推進した。また,土木功者津田永忠を起用して新田開発,用・排水路の開削に努め,藩校閑谷(しずたに)学校を創設して士庶の教育に異常な情熱を注ぎ,儒教的合理主義の立場から独自の寺社政策を断行した。好学で世に〈名君新太郎少将〉とうたわれた。…
※「閑谷学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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