閑谷学校(読み)シズタニガッコウ

デジタル大辞泉 「閑谷学校」の意味・読み・例文・類語

しずたに‐がっこう〔しづたにガクカウ〕【閑谷学校】

閑谷黌しずたにこう

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日本歴史地名大系 「閑谷学校」の解説

閑谷学校
しずたにがつこう

[現在地名]備前市閑谷

岡山藩設立の郷校。閑谷の山間部を南流する伊里いり川を、和気わけ吉永よしなが町との境近くまでさかのぼった閑静な地にある。施設の大半が現在も保存されており、旧閑谷学校として国の特別史跡に指定。

石門から北に一キロほど進んではんちに架かる石橋を渡り、かまぼこ形石の石塀の校門を入ると正面に聖廟、東隣に閑谷神社、手前左手に講堂とそれに南接するしよう斎がある。講堂西側には習芸しゆうげい斎および飲室、玄関および釣屋が続き、さらに西方に文庫と背後に火除山がある。小斎南方の石塀には薬医門である公門、さらに西側には飲室門があり、閑谷神社の石塀を隔てた東側には椿つばき山がある。史跡指定の範囲は、江戸時代の学田・学林を含む広義の学校敷地の石門、池と同池南東方にある黄葉こうよう亭、その北にある津田永忠宅跡、先に記した石塀内の建物と椿山を含んだ三万八千八二九平方メートル。

寛文六年(一六六六)和気郡木谷きだに村とよばれていた当地を池田光政が訪れ、立地条件の良好なことに注目して学校設立を計画した。同八年には庶民教育のための郡中手習所の一所が同村延原のぶはらに置かれ、同一〇年には仮学校が建てられた。延原は閑谷と改称され、同一二年に飲室・学房などが完成。同年の光政隠退後は嗣子の綱政が引継いだ。延宝元年(一六七三)講堂が建ち、当初から事業を直接推進してきた津田永忠が当地に居を移し、建設管理に当たった。同二年郡中手習所が廃止され、同五年文庫・小斎を建築、講堂の屋根を草葺から黒瓦葺とした。貞享元年(一六八四)聖廟を再建して大成たいせい殿と命名し、同三年には天和二年(一六八二)に没した光政を祀る芳烈ほうれつ祠堂(東御堂、現閑谷神社)を建立した。

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改訂新版 世界大百科事典 「閑谷学校」の意味・わかりやすい解説

閑谷学校 (しずたにがっこう)

岡山藩領内の藩設立の郷学校。1666年(寛文6)藩主池田光政は領民教化の一環として和気郡伊里村閑谷(現,備前市)の地に学校設立を計画し,68年手習所を開設したのに始まる。75年(延宝3)各地の手習所を統合して規模を拡張し,正式に閑谷黌(しずたにこう)と称した。藩主の特別の保護により,講堂,聖廟,文庫などをもち,藩校に比肩しうる規模を備えた。江戸時代学校建築の代表的遺構で,講堂は桁行7間,梁間6間の入母屋造,1701年(元禄14)の改造になる。内部は広い板敷き,棹縁天井を張り,屋根に備前の赤い瓦をふく。また学校は低い石塀で囲まれている。同校には,近在の武士だけでなく名主層およびそれに準ずる農民子弟の学習も許された。教育内容は,入門程度から中等程度までの漢学であった。1870年(明治3)藩学校となり,77年いったん廃校となったが,84年校内に中学校程度の私立学校が設立され,のちに岡山県立閑谷中学校,県立閑谷高等学校などとなった。現在は県の青少年教育センターが設けられている。同校およびその周辺は国の特別史跡,講堂は国宝に指定されている。
郷学
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百科事典マイペディア 「閑谷学校」の意味・わかりやすい解説

閑谷学校【しずたにがっこう】

岡山藩の郷学。1668年,藩主池田光政が領内に設立した百数十ヵ所の手習所が,和気(わけ)郡閑谷(現,備前市)に置かれたものに1675年統合され,閑谷黌(こう)となった。岡山藩校と並んで発展し,武士だけでなく,一般庶民の子弟も収容しておもに朱子学を授けた。1870年岡山藩校に合併,1877年廃校。遺構(特別史跡)は学校建築史上貴重。
→関連項目岡山藩花畠教場備前[市]山田方谷

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「閑谷学校」の解説

閑谷学校
しずたにがっこう

備前国岡山藩の郷学。はじめ閑谷学問所,明治期以後閑谷精舎(しょうしゃ)・閑谷黌(こう)ともいった。1670年(寛文10)和気(わけ)郡伊里村閑谷(現,岡山県備前市)に設立。藩主池田光政が設置した寮内123カ所の手習所の維持の困難さをみて,学校奉行津田永忠に命じて永世継続の方法をとらせた。社倉米制度・学校領・下作人制度を定め,1701年(元禄14)完成。庶民子弟の教育を主とし,寄宿および通学。初級から中等程度の漢学(朱子学)・習字・算術を教授。江戸時代の学校建築の代表的遺構で,国特別史跡。芳烈祠(ほうれつし)・聖廟(せいびょう)・講堂・小斎(しょうさい)・飲室等の建造物や石塀が保存されている。1870年(明治3)藩学校となり,のち廃校。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「閑谷学校」の意味・わかりやすい解説

閑谷学校
しずたにがっこう

閑谷黌 (こう) ともいう。江戸時代の郷学として有名。寛文8 (1668) 年岡山藩主池田光政が民間子弟の学校として創建。 1877年にはこれが母体となって岡山県立閑谷中学校が生れ,1949年岡山県立閑谷高等学校となった。現在当初の姿を伝える多くの建物が残り,貴重な存在となっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「閑谷学校」の解説

閑谷学校
しずたにがっこう

江戸時代,岡山藩の郷学
閑谷黌 (しずたにこう) ともいう。1668年藩主池田光政が村々に設置した手習所のうち閑谷村の手習所に始まり,のち125か所の施設を併合。農村子弟を教育した。郷学の最も早い例。1870年廃校。現在,岡山県備前市に津田永忠の建設した遺構がある。

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世界大百科事典(旧版)内の閑谷学校の言及

【池田光政】より

…1654年(承応3)の大洪水で危機に直面したとき,地方(じかた)知行制度の大変革を断行して,家臣統制の強化と領民直接支配の促進をはかり,仁政理念に基づく農政を推進した。また,土木功者津田永忠を起用して新田開発,用・排水路の開削に努め,藩校閑谷(しずたに)学校を創設して士庶の教育に異常な情熱を注ぎ,儒教的合理主義の立場から独自の寺社政策を断行した。好学で世に〈名君新太郎少将〉とうたわれた。…

※「閑谷学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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