「きょうがく」と読む説も有力。郷校、郷黌(ごうこう)、郷学所、郷学校、明治期には義校とも称した。江戸時代から明治初年にわたって存在した武士・庶民のための領主公認の教育機関で、次の三つに大別される。
〔1〕藩が領内の僻地(へきち)に、また藩主の支族・重臣らの所領に設けた陪臣のための学校。会津、秋田、盛岡、萩(はぎ)、佐賀、熊本など辺地の大藩に例が多い。
〔2〕藩主・代官、民間有志が庶民教育のために設立し、藩主や地頭(じとう)がこれを補助したり、嘉納して保護・監督にあたって運営した学校。岡山藩が1668年(寛文8)領内に設けた手習所(123か所)の例が古く、有名である(のち閑谷(しずたに)学校に統合)。
〔3〕これらのなかで、とくに民衆の自主性や内発性に支えられて設立された庶民のための学校で、民衆が公的教育を要求する運動の所産とみられるもの。
いずれも儒学を中心に、文武あるいは書算を授け、未成年者、成人を一体的に対象とした生涯教育型のものが多い。全期間を通じ、全国に1000余校の郷学が設立されたが、多くは明治初年に集中している。
いわゆる第三種郷学とよばれる〔3〕の代表例は、摂津国平野(ひらの)郷(大阪市東住吉区)の含翠堂(がんすいどう)(当初、老松堂(ろうしょうどう))で、1717年(享保2)郷民の教育機関として設立され、1872年(明治5)の学制頒布まで続いた。中世末の自治都市平野郷町以来の、地域の有力者からなる同志の寄金により維持されており、大坂近郊在郷町の商人地主層の教育文化活動の一環である。かたわら賑給(しんきゅう)料とよぶ基金を備蓄し、飢饉(ききん)時の救済活動も行っている。含翠堂では、以下のような、次の時代の公教育につながる諸要素が指摘されている。
(1)その教育は儒学が中心であるが、特定の学統によらず、町人としての実践道徳に重点を置き、封建的身分制を超えた人間性の問題を提起している。
(2)設立維持者と教師とが分離している。
(3)教育は教師に任されている。
(4)経済的基礎は有志人民の共同出資によっている。
(5)権力に公認されている。
学制に先だつ1869年(明治2)京都の町組により設立された小学校、71年開校の武蔵(むさし)国南多摩(みなみたま)郡小野路(おのじ)村(東京都町田市・多摩市)の郷学などは、いずれも地域の有力者たちが、新時代の人材養成のため設立・維持したものである。小野路郷学からは後年の多摩自由民権運動の指導者たちが育っている。郷学の内容は多様であるが、全般に支配者層の教化策によるものも多く、民衆の教育要求や、運動の評価については、今後の研究にまたれる。しかし郷学は、明治期「学制」以後の日本の公立学校や公教育制度の前史に一定の位置を占めるものであった。
[木槻哲夫]
『津田秀夫著『近世民衆教育運動の展開』(1978・御茶の水書房)』▽『石島庸男著「京都番組小学校創出の郷学的意義」(『講座日本教育史2』所収・1984・第一法規出版)』▽『石川謙著『日本学校史の研究』(1960・小学館)』▽『文部省編『日本教育史資料 3』復刻版(1970・臨川書店)』▽『梅渓昇・脇田修編『平野含翠堂史料』(1973・清文堂出版)』
近世から近代初期にかけての教育機関の一つ。藩学(藩校)とも寺子(小)屋とも異なる教育機能を示す学校である。郷学所,郷校,郷黌などともいう。明治の〈学制〉頒布後に設立された小学校にその機能を継承したものが多い。郷学には三つの形態がある。(1)藩学と同じような性格のものであり,領内の僻地にある藩士を教育するために,藩みずからが藩侯の支族や家老などの知行地にたてた家臣の学問所である。(2)藩主・旗本・天領の代官などが直接か間接かに設立に関係してできたもので,その対象とするものは一般民衆である。(3)対象は(2)と同じように一般民衆だが,その設立者が町や村の民間の有志やその集りであり,設立にあたって幕藩当局の保護や監督をほとんど受けていないものである。
(1)は準藩学の色彩が強く,その内容や学習規則とも藩学に準じてつくられている。このうち藩がみずから経営したものは,領内の不便なところに藩士を駐屯させた藩や,要害の地に飛地をもった藩などに多い。とくに天明~享和年間(1781-1804)以後になって多く出現する。奥羽・中国・四国・九州のように,大藩の多い領内や交通の不便な地方では,統治上,この種の郷学が発達した。(2)は,その盛行期に入るのは,文化年間(1804-18)以後である。これは封建的危機が深刻化するにしたがって,その回避をはかるための領主の教化政策と密接に関係してくるようになり,民衆教化を意図する教諭所的性格を兼ねるにいたる。(3)は,従来(2)と混同して考えられていたが,1717年(享保2)に設立された摂津国平野郷含翠堂に典型的にみられる。この郷学は,農民的商品経済の早期に発達した地域で,それに伴う封建社会の矛盾の激化を感知した有志の富民層が中心となり,この事態に対処するために,知識的不平等におかれた民衆の啓蒙を意図して民間に発生した文化サークル運動から出発して,恒常的な学校設立の活動となったものである。
執筆者:津田 秀夫
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郷校とも。江戸~明治初期の教育機関の一つ。江戸初期の岡山藩の閑谷(しずたに)学校,1717年(享保2)設立の摂津国平野郷の含翠(がんすい)堂などが著名。設立が盛んになるのは19世紀に入ってからで,明治初年にも多数創立された。郷学の性格は多様で,藩校の分校的存在,藩営による庶民教育機関,庶民の組合的組織による地方学校の3種に大別できる。教育史的に注目されるのは,幕末・維新期に爆発的に増えた3番目の地方学校で,明治期の小学校の短期間での多数設立の一母体となったとされる。ただしこの種の郷学も性格・教育内容は地域によって多様で,分布度に濃淡も多く,いまだ未解明の領域である。
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…これは,市井の学者による批判を受けながらも,幕末の国学,蘭学の高揚を迎えるまで権威を保ち続けた。江戸時代の学校としては,このほか,藩校(藩黌,藩学),郷学,私塾,寺子屋などがあり,戦乱のない社会で,それぞれ発展した。藩校は各藩が藩体制強化のため武士の子弟に儒学と武道を教授することを目的として設置された。…
…岡山藩領内の藩設立の郷学校。1666年(寛文6)藩主池田光政は領民教化の一環として和気郡伊里村閑谷(現,備前市)の地に学校設立を計画し,68年手習所を開設したのに始まる。…
※「郷学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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