中国,初唐の政治家,建築家,画家。京兆万年(西安市長安県)の人。北周,隋に仕えた父の閻毗,唐の高祖,太宗,高宗に仕え太宗陵の造営に当たった兄の閻立徳(?-656)を継いで建築家として唐に仕え,工部尚書から宰相となって(668)没するまでその任にあり,文貞と諡(おくりな)された。ただ,則天武后が力を持ちはじめたときの政局を収拾する宰相としての力量には欠けていた。その本領は閻氏の家業といわれる建築と絵画,ことに絵画において発揮され,太宗即位前のブレーンを描いた《秦府十八学士図》(626),建国の功臣を凌煙閣に描いた《凌煙閣功臣二十四人図》(643)などの制作に当たり,勧戒画が主流をなした初唐の画壇をリードした。その画風は梁の張僧繇(ちようそうよう),あるいは張僧繇に倣う隋の鄭法士にさらに倣うといわれ,南北朝の画風を総合したものであったと考えられる。伝称作品に《帝王図巻》(ボストン美術館),《歩輦図巻》(北京故宮博物院)などがある。
執筆者:小川 裕充
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中国、唐(とう)初の画家。雍州(ようしゅう)万年県(西安(せいあん))の人。父閻毗(えんび)、兄閻立徳(りっとく)も画家として有名である。兄立徳(?―656)は尚衣奉御(しょういほうぎょ)、将作大匠(しょうさくだいしょう)、工部尚書(しょうしょ)に至ったが、宮廷の衣服、調度の制作や、陵墓、宮殿、道路、橋梁(きょうりょう)の造営などに活躍した。立本は兄の業を継ぎ、将作大匠、工部尚書を経て、高宗朝の中書令(宰相)となっている。立本は鄭法士(ていほうし)、張僧繇(ちょうそうよう)の画法を学んだとされ、一家をなしたが、描線は肥痩(ひそう)のない細線で、力と速度のあるものであったらしい。肖像画に巧みで、『秦(しん)王府十八学士図』『凌烟閣(りょうえんかく)功臣図』『外国(使節)図』はいずれも称賛を博した。閻立本作と伝えられるものに、ボストン美術館の『歴代帝王図巻』、北京の故宮博物院の『歩輦(ほれん)図』があるが、確証はない。
[吉村 怜]
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?~673
唐初の宮廷画家。雍州(ようしゅう)万年(陝西(せんせい)省長安県)の人。服飾,建築の名家に生まれ,宰相にもなった。古来の均質な描線による精密な画風を大成したもので,宋代の模本「歴代帝王図巻」が残っている。
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…歴代の帝王を選択的にかくもの,ある王朝の皇帝すべてを包含するもの,さらには各朝各代の皇帝の独立した肖像画など,種々の作例がある。前漢昭帝から隋煬帝(ようだい)まで13人の帝王をかいた伝閻立本《帝王図巻》(ボストン美術館)は第1の,清朝内府に収蔵されていた《南薫殿図像》(台北故宮博物院)のうち《宋代帝半身像冊》は第2の,都合11幅を数える《明太祖像》は第3のものの例である。それらは勧戒の意はもちろん,各朝においては尊崇の意をこめたものでもあり,軸物は寺観などに別に場所を設けて掲げ礼拝の対象とされた。…
… 唐は隋に引き続き,行政や軍事といった国家の根幹にかかわる制度については,おもに北朝の伝統を受け継いだが,芸術や文学については,漢民族の伝統を守ってきた南朝の貴族文化を受け継ぐことが多かった。唐初の人物画の名手であった閻立本(えんりつぽん)は顧愷之(こがいし)の手法を発展させたし,初唐の三大書家といわれる虞世南,欧陽詢,褚遂良(ちよすいりよう)は王羲之の正統を伝えて楷書を完成させた。儒教においても,太宗が孔頴達(くようだつ)に命じて編集させた《五経正義》は,漢以来の古典解釈学を集大成したものであるが,多く南朝の学説が採用された。…
※「閻立本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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