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闔閭 こうりょHe-lü; Ho-lü

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

闔閭
こうりょ
He-lü; Ho-lü

[生]?
[没]前496
中国,春秋時代末期の五覇の一人。王 (在位前 515~前 496) 。闔廬とも記される。父は諸樊,その弟の余昧の子ともいう。夫差の父。王僚を殺して即位。の亡臣伍子胥や武将孫武を用いて国の発展に努め,晋の援助を受けながら楚と対立し,しばしば楚を破り覇者となった。前 496年の攻撃に失敗し負傷して死亡。

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大辞林 第三版の解説

こうりょ【闔閭】

?~前496) 中国、春秋時代の呉の王。名は光。孫武・伍子胥ごししよを用いて楚を破り覇者となったが、越王勾践こうせんに敗れ、戦傷死した。その子夫差ふさが会稽かいけい山に勾践を降し、復讐した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

闔閭
こうりょ
(?―前496)

中国、春秋時代の呉(ご)の王(在位前515~前496)。呉王餘妹(よまい)(夷昧、夷末。在位前544~527)の子、呉王夫差(ふさ)の父。餘妹についで王となった呉王僚(りょう)(在位前527~515)を殺して即位。伍子胥(ごししょ)、孫武を用いて軍備を整え、前506年大挙して楚(そ)を攻め、都の郢(えい)を陥落させた。ときに越(えつ)が侵入し、秦(しん)も楚を救い、また弟の夫(ふがい)がこれに乗じて自立したので、闔閭は帰国し、夫を敗走させた。やがて楚は遷都のやむなきに至る。前496年、越王允常(いんじょう)の死を聞いて越を討ち、越王勾践(こうせん)(すいり)で戦ったが傷つき、死去した。2年後、夫差は父の仇(あだ)に報い勾践を屈服させた。[平勢隆郎]

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世界大百科事典内の闔閭の言及

【虎丘】より

…中国,江蘇省蘇州市の北西にある古跡。春秋時代,呉の闔閭(こうりよ)王(在位,前515‐前496)の墓址と伝えられる。いまは雲巌寺(うんがんじ)虎丘塔,剣池,千人石などがある。…

【伍子胥】より

…楚国のお家騒動で父と兄とを楚の平王に殺されると,楚より出奔し,諸国をさまよったあと,呉に身を寄せた。呉王の闔閭(こうりよ)が父王を殺して即位するのに力をかして信任を受け,兵法家の孫武とともに呉の国力の充実につとめた。国力をのばした呉は,楚に侵攻し,楚都の郢(えい)を陥(おと)した。…

※「闔閭」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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