中国、春秋時代末の越(えつ)の王(在位前496~前467)。江蘇(こうそ)の大国呉(ご)の王闔閭(こうりょ)が、父允常(いんじょう)の死に乗じて攻め寄せたのを迎え撃ち、敗死させた。いわゆる臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の故事は、夫差(ふさ)と勾践が恥を忍び復讐(ふくしゅう)を成就させたことで有名。『十八史略』に「臥薪」を夫差、「嘗胆」を勾践の事績とするが、そもそも『左伝』に見える説話では、「臥薪」(の元の話)、「嘗胆」いずれも勾践の事績で、「坐臥のたびに胆を仰ぎ、飲食のたびに嘗胆する」であった。いずれにしても夫差はその恥を忘れず勾践を降伏させ、勾践もその恥を忘れなかった。勾践は文種(ぶんしょう)、范蠡(はんれい)を重用して富国強兵につとめ、夫差が中原に覇をとなえるべく黄池の会にでかけたすきを突いて、呉に攻め入った。夫差の意図は頓挫する。以後勾践は連年呉を攻め、前473年、夫差を自害させ呉を滅ぼした。そして勢いに乗じて北進し、斉(せい)、晋(しん)や諸侯と会盟して覇を唱えた。勾践はのちに五覇の一に数えられている。勾践の死後も、越は一定の勢力を維持し、楚(そ)の東進を防いでいたが、前329年、楚の威王に大破された。『戦国策』によると、前279年の時点で、楚の頃襄王(けいじょうおう)(在位前296~261)は越と5度戦い3度勝利して江蘇の越の本拠を滅ぼしたという。前3世紀初めごろの湖北省望山1号楚墓から越王勾践剣が出土するのも、この越地の攻略の際に越の墓が盗掘され、戦利品として持ち帰られたためらしい。
[平勢隆郎]
?~前465(在位前496~前465)
春秋末期の越(えつ)の王。荀子(じゅんし)は五覇の一人にあげる。会稽(かいけい)を都とした越は,北の呉と対立した。呉王闔閭(こうりょ)が勾践との戦いで傷ついて亡くなると,子の呉王夫差(ふさ)は越を報復のために攻めた。勾践は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の故事で知られるように,夫差に囲まれたことを会稽の恥として復讐を果たすために国力を蓄え,20年後に呉を滅ぼして覇王となる。范蠡(はんれい)と大夫種(たいふしゅ)の賢人がその政治を支えた。『呉越春秋』『越絶書』『史記』越王世家などに詳しい。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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