日本大百科全書(ニッポニカ) 「陶行知」の意味・わかりやすい解説
陶行知
とうこうち / タオシンチー
(1891―1946)
中国の教育家。もとの名は文濬(ぶんえい)。安徽(あんき)省歙(きゅう)県の人。1910年南京(ナンキン)の金陵大学に入学、1914年卒業して渡米。イリノイ大学で都市政策を研究、のちコロンビア大学でプラグマティズムの首唱者デューイに教育学を学ぶ。1916年帰国すると、南京高等師範学校教務主任、ついで中華教育改進社総幹事となり、1923年には晏陽初らと中華平民教育促進会を発足させて、平民教育運動を推進した。1926年には『中華教育改進社改造全国郷村教育宣言』を発表。1927年には南京郊外に暁荘試験郷村師範学校を、1932年には生活教育社および山海工学団を設立して、生活教育を宣伝し、「生活は教育、社会は学校」「教学合一」を主張した。また成績のよい生徒が他の生徒を教える小先生制を提唱し、教育を手段として民衆の生活を改善しようとした。1935年以後は学生、民衆による抗日運動のなかで、教育は民族革命のためのものと考え、上海(シャンハイ)救国会の単位を組織し、国難教育社を結成し、『国難のための大衆教育方案』(1936)を書いた。そして相次いで育才学校や社会大学を創立し、また民主同盟委員としての政治活動、大衆詩の創作を行ったが、1946年白色テロ下の上海で急死した。著作には『中国教育の改造』『古廟敲鐘録(こびょうこうしょうろく)』『斎夫(さいふ)自由談』『行知詩歌集』『行知書信』などがある。
[深澤一幸]
『斎藤秋男著『陶行知』(1951・刀江書院)』