日本大百科全書(ニッポニカ) 「集団化」の意味・わかりやすい解説
集団化
しゅうだんか
collectivization (of agriculture) 英語
Kollektivierung (der Landwirtschaft) ドイツ語
коллективизация(сельского хозяйства)/kollektivizatsiya (sel'skogo hozyaystva) ロシア語
一般に社会主義建設の過程で、個人農経営を協同組合的な方法で大規模経営に統合することと解されるが、とくに1920年代末から30年代初頭にかけてソ連で展開された集団農場へ農民を加入させる運動をさすことが多い。農業集団化ともいう。
[荒田 洋]
ソ連における集団化
ソ連では、十月革命で政権をとったボリシェビキ党は、個人農経営を大規模経営に統合することをその綱領としており、ソビエト政権は、国営農場(略称ソフホーズ)と並んで集団農場(略称コルホーズ)を組織することを追求したが、十月革命それ自体が、農民に対して土地利用権を配分することの承認から始めねばならなかったことが示すように、集団化のための客観的な条件は不十分であり、小規模個人農経営が大部分を占めていた。戦時共産主義期の食糧割当徴発制に対する農民の不満は1921年にネップ(新経済政策)への移行を採用させたが、それは小生産者としての農民の存在を認めること、すなわち小農民とは市場的な関係を通じて接するという態度を農民にとることを意味していたとすれば、当面、集団化は現実にはほとんど進行しなかった。
国民経済がいちおう第一次世界大戦前の水準に復興した1925~26年以降、工業化政策がとられると、いわゆる商品飢饉(ききん)が起こり、市場的方法によって小農民経営から農産物を商品化させることが困難になった。1927~28年には穀物調達危機が起こり、ソビエト政権の側は、行政的圧力を含む非常措置によって対応した。さらに1928~29年には村の共同体に穀物の供出を自発的に引き受けさせるという外観による調達方法(ウラル・シベリア方式)がとられた。これは、調達に応じない者に多額の罰金、さらには財産没収などの罰則を適用することによって、反抗する農民をクラーク(富農)として追放することを可能にするものであった。農民をもはや小商品生産者として取り扱わないという意味でネップの終わりであった。
右翼反対派の指導者たちはこれに強く反対したが、政治的に敗北し、スターリン派は、このウラル・シベリア方式とクラーク清算をてことして、農村に多数の活動家を派遣すること(2万5000人組)によって、村ごとに農民を集団農場に加入させる政策を、1929年末から急速に「上からの革命」として展開した。その主たる契機は調達問題に求められるであろう。1930年初めには、主要な穀作地帯ではほぼ1年間で、その他の穀作地帯では2年間で集団化を完了することを指令した。このような急速な運動の展開は、十分な準備活動を伴っておらず、多くの行きすぎが犯され、とりわけ家畜の大量殺処分が起こった。1930年3月には、これらの行きすぎと誤りを指摘した「成功による眩惑(げんわく)」というスターリンの論文が発表され、一時的にこの運動にブレーキがかけられたが、同年秋からこの運動は再開され、33年の飢饉を乗り越えて、34年には大部分の地方で集団化は完了した。この結果成立したコルホーズの体制は、1935年のコルホーズ模範定款においていちおうの制度的枠組みが与えられた。
この間にコルホーズへの機械やトラクターの供給は、その量がまだ十分でなく、それらの操作要員もまた十分ではないという理由で、国家が集中して所有し、操作要員付きでいくつかのコルホーズの作業を請け負う機械・トラクター・ステーション(MTS)によって行われるようになり、またそこがコルホーズを統制するセンター(MTS政治部、1933~34年)としても利用された(MTSは1958年に廃止され、機械類はコルホーズに売却された)。
模範定款にみられるコルホーズ制度は、主要な共同の圃場(ほじょう)からの農産物は、国家に一定の割合または量を相対的に安い価格で供出(義務納入)し、またMTSのサービスに対しては現物で支払い、経営用の必要を満たしたあとに残余があれば、そのメンバーの労働すなわち作業に対する点数制(作業日)に応じて現物あるいは現金で分配されるというものであったが、その水準は低かった。一方各農家は、その屋敷付属地において個人副業を認められ、その生産物は自家消費のほか、コルホーズ市場という市場で自由価格で販売することが認められた。そして実質的にコルホーズ農民の所得のかなりの部分は、個人副業経営から得られたものであった。またコルホーズ農民にはパスポート(国内旅券)が発行されなかったので、コルホーズから自由に脱退することはできなかった。こうした状況に置かれたコルホーズ農民は、共同の農場の労働には意欲を示さない傾向がみられた。このような制度に大きな変更が加えられたのは、1950年代後半、とくに60年代になってからであった。
1960年代以降、コルホーズ農民にも年金を含む一定の所得が保障される制度が導入されたが、農業の生産性がほとんど向上しなかったために、結局、政府が大きな財政負担を抱えることとなった。ソ連崩壊後の市場経済への転換のなかで個人農の復活も認められたが、あまり普及せず、旧コルホーズや旧ソフホーズを基礎に離合集散した企業が主要な農業の担い手になっている。
[荒田 洋]
その他の社会主義国における集団化
東欧諸国では、第二次世界大戦後、まず土地改革が行われ、1948年のコミンフォルムのユーゴスラビア批判を契機に、各国で農業集団化が開始された。それは全体としてソ連の集団化に範をとるものであった。スターリンの死後、1956年にスターリン批判が開始されるまでには集団化のテンポも緩み、ポーランド、ハンガリーでは集団農場の解散が認められたりしたが、その後60年代初めまでに、ポーランドとユーゴスラビアを除いては、ほぼ集団化を完了した。
中国においては、1949年の革命後、土地改革、段階的農業協同化(互助組、初級合作社、高級合作社)を経て、農村の行政機関と協同組合とを合体した(政社合一)人民公社が形成されたが、その後、人民公社は解体され、現在は、協同組合的な土地所有は残されているものの、家族請負経営の形態を通じて事実上個人農経営が支配的になっている。
[荒田 洋]
『溪内謙著『スターリン政治体制の成立 1~4部』(1970~86・岩波書店)』▽『В・П・ダニーロフ著、荒田洋・奥田央訳『ロシアにおける共同体と集団化』(1977・御茶の水書房)』▽『奥田央著『コルホーズの成立過程――ロシアにおける共同体の終焉――』(1990・岩波書店)』▽『M・レヴィン著、荒田洋訳『ロシア農民とソヴェト権力』(1992・未来社)』▽『奥田央著『ヴォルガの革命 スターリン統治下の農村』(1996・東京大学出版会)』