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鞏県石窟 きょうけんせっくつGong-xian shi-ku

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鞏県石窟
きょうけんせっくつ
Gong-xian shi-ku

中国,河南省鞏県にある北魏から唐代に続営された石窟寺院洛水にのぞんだ断崖に開かれた石窟で,景明年間 (500~503) に造営を始めたといわれる。竜門石窟に近い場所にありながら,竜門石窟の仏像彫刻の形式的,固定的な様式と異なり,青みを帯びた砂岩を用い,自由な表現で簡素な彫法のうちに格調の高い作風が特徴。現存する5つの洞はすべて南面し,第1,2,3洞と第4,5洞の中間には三尊の大仏があり,大石仏の本尊仏立像は北魏様式の典型といわれる。

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百科事典マイペディアの解説

鞏県石窟【きょうけんせっくつ】

中国,河南(かなん)省鞏県北東にある北魏(ほくぎ)時代の仏教石窟寺院。洛水に臨む砂岩の岩壁に5窟あり,第4・第5洞の間に三尊形式の巨大な仏立像がある。内部には北魏様式の美しい彫刻,浮彫が施され,特に第2・第3・第5洞の供養者列像がすぐれている。

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世界大百科事典 第2版の解説

きょうけんせっくつ【鞏県石窟 Gŏng xiàn shí kū】

中国,河南省中部の鞏県北東9kmにある仏教石窟。洛水に南面する大力山の砂岩崖下にある。唐の竜朔2年(662)に刻まれた〈後魏孝文帝故希玄寺碑〉によれば,北魏には希玄寺と呼び,北魏普泰1年(531)の造像記があり,〈重修大力山石窟十方浄土禅寺記〉(1494∥明の弘治7)によれば,北魏宣武帝の景明年間(500‐503)の開掘という。石窟形式や造像様式はこれらの記録を裏づけし,北魏末に開掘されて,東・西魏北斉,唐・宋に及び,いま石窟5,三大仏,千仏龕(がん)1,磨崖造像龕238を残している。

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世界の観光地名がわかる事典の解説

きょうけんせっくつ【鞏県石窟】

中国の河南(かなん)省鄭州(ていしゅう)(チョンチョウ)市の鞏県、大力山の麓にある石窟。北魏時代に創建され、当初は「希玄寺」と呼ばれていたが、清時代に「石窟寺」と改称された。石窟は5窟あって方形の中心に柱型部分を残し、壁面と柱型面に仏龕(ぶつがん)が彫られて3体の仏像が保存されている。帝后礼仏図は、皇室の宗教行事を表したレリーフである。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鞏県石窟
きょうけんせっくつ

中国、河南省の鞏県城北西、約1.5キロメートルにある北魏(ほくぎ)の石窟寺院。大力山の断崖(だんがい)に南面して5窟がある。古く浄土寺といわれ、明(みん)代の重修碑によると、北魏景明年間(500~504)に開削されたと伝える。第1洞と第2洞は西部に、第3、第4、第5洞の3窟は東部に位置しており、第1洞と第2洞の間には摩崖の釈迦(しゃか)大像が刻まれている。第1洞から第4洞までの4窟は方柱窟で、方柱の四面に仏龕(ぶつがん)をつくり、周壁にも仏龕、千仏などを刻み、また腰壁には伎楽(ぎがく)の天人、鬼神怪獣の像。門口内両側には王侯貴族の礼仏図。天井の格間には図案化した蓮華(れんげ)、蓮華化生(けしょう)、天人などを描いている。第5洞だけが仏龕窟であるために、内部構造や荘厳(しょうごん)も異なり、造営年代も520年代の後半。ほとんど同時に工事が進められ、第2洞が未完成のまま廃棄されているところをみると、北魏の滅亡とともに造営を終えたものと推測される。[吉村 怜]

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