石窟寺院(読み)セックツジイン(その他表記)cave temple

デジタル大辞泉 「石窟寺院」の意味・読み・例文・類語

せっくつ‐じいん〔セキクツジヰン〕【石窟寺院】

仏像を、岩壁の岩をくりぬいてその中に安置したり、壁面に刻み出したりして寺院としたところ。インドのアジャンタや中国の雲崗うんこう敦煌とんこう竜門などが有名。石窟寺

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精選版 日本国語大辞典 「石窟寺院」の意味・読み・例文・類語

せっくつ‐じいんセキクツジヰン【石窟寺院】

  1. 〘 名詞 〙 岩崖に窟をうがち、その中に仏像を安置し、あるいは壁面に刻み出して寺院としたところ。インドにはじまり、アフガニスタン中央アジアを経て中国に伝播している。石窟寺。

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改訂新版 世界大百科事典 「石窟寺院」の意味・わかりやすい解説

石窟寺院 (せっくつじいん)
cave temple

丘陵や山崖を掘開し,目的用途に従って内部空間を整備した宗教施設の総称。窟院と略称する。構造材を架構した実際の建築による寺院に対応する寺院の一形式で,内部構造,平面形にそれが反映する場合が多い。また石窟だけで構成されるばかりでなく,実際の建築と石窟とが併用されることもある。単独の石窟はまれで,群集し,数窟から数百窟に及ぶ。したがって各時期の寺院構成は長期造営の場合必ずしも明らかでなく,年代決定は壁画・彫塑様式や碑銘,文献が手がかりとなり,構造,平面形からではむずかしいことが多い。

 ヒンドゥー教ジャイナ教の石窟(エレファンタウダヤギリカンダギリエローラ)は,5~10世紀インドで,キリスト教窟はカッパドキアで知られるが,仏教窟院は,仏教流通の地域・時代が広いため最も多く,インド(前期-前1~後2世紀,後期-5~10世紀),中央アジア(4~14世紀),中国(4~14世紀)に及ぶ。地域・時代の要請を反映して独自の形式をもち,造営・重修は,規模を問わず支配階層,経済環境に依存し,とくに中央アジア,中国北部は遊牧国家との関連がみられる。残りにくい建築に対して石窟は建築史の第一級資料であり,彫塑,壁画は典籍ではわかりにくい信仰形態のみならず,風俗など当時の文化を伝え,仏教ばかりでなくきわめて広範な史料となっている。

 インドではマガダバラーバルのような非仏教窟が初現し,前1世紀からとくに西部インドで流行した。仏教窟は礼拝対象を祀るチャイティヤ窟1と僧衆の居所ビハーラ窟数窟から成る。バージャーカールレーナーシクに代表される前期はドーム天井の円堂が,まずチャイティヤ窟として現れ,ついで馬蹄形平面にボールト(穹窿(きゆうりゆう))+四半球の天井を列柱が支える形式が盛行する。列柱は身廊(しんろう)と側廊を形成し,身廊奥に二重基壇のストゥーパを彫り出し,側廊を遶道(にようどう)(プラダクシナパタ)とした。後期もこの式を踏襲し,ストゥーパや壁に仏像を付加し,柱・壁に綿密な浮彫を施して厳飾化が進展した(アジャンターアウランガーバード)。ビハーラ窟は一窟の1辺ないし3辺に独房を開く集中式で,前期は規模が小さく,簡素であるが,後期は窟中央を列柱広間とし,独房数も多く,内奥に仏堂をつくり,壁画,彫塑の厳飾がみられる。ヒンドゥー窟も細部彫刻に固執し,岩山を一つの寺院に彫り出したエローラのようなものも現れた。

 ヒンドゥークシュ,天山南麓,祁連(きれん)北麓,さらに太行山脈東麓に及ぶ中央アジア,中国北部では,オアシスなど政治・経済の中心地の近郊で,礫岩,砂岩,石灰岩などの山崖に幾層にもわたって造営され,各窟が独立して崖面に開口することが多い(キジル石窟バーミヤーン)。一部で丘頂にストゥーパを造立し,石窟を僧房としたが,インド前期と異なり,ストゥーパ中心の礼拝窟はなく,もっぱら尊像中心で,のちに崖面に仏龕(ぶつがん)を造った。中国の北魏から北斉に及ぶ敦煌莫高窟雲岡石窟響堂山石窟などでは,方柱を方形窟中央に天井まで掘り残し,そこに尊像を配置する礼拝窟が流行し,塔柱窟と命名されている。インドのチャイティヤ窟が祖型といわれるが,形態が類似したにすぎず,中心は尊像である。尊像窟は正方形,長方形,両者の組合せの平面が主流で,円形,八角形の平面もある。ドーム,ボールト,ラテルネン,クロスボールト,四注,切妻,平天井を架した。正方形,円形,八角形平面では周壁に彫塑・絵画による仏龕,長方形平面では奥壁に仏龕を設け,トンネル状に遶道を掘った。礫岩窟では,壁をすさまじりの泥土で厚く塗装し,窟全体に壁画を描いた。中国の砂岩,石灰岩の石窟では壁を彫刻して仏像を配置する。中国ではもっぱら尊像窟ばかりで石窟寺院が成り立つことが多く,僧房窟がない場合がある。インド近接地域では僧房窟が明らかに尊像窟と区別され,平面は方形,長方形が主流である。またハッダにみられるように開地にストゥーパ区を設け,尊像窟や僧房窟を併用するのもこの地域の特色である。

 中央アジアはインドに,中国は中央アジアに,それぞれの石窟形式の先蹤(せんしよう)を求めうるという見解が流布しているが,必ずしも妥当ではなく,地域・時代による独自性を明らかにし,整理する必要がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石窟寺院」の意味・わかりやすい解説

石窟寺院
せっくつじいん

岩山の断崖(だんがい)面を利用して掘削した洞窟形式の宗教建築。本来は修行者が隠遁(いんとん)する簡単な洞窟から発展したものである。主として、インドの三大宗教である仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教によってつくられ、その影響を受けて中央アジアや中国にも広まっていった。石窟寺院という語は英語のcave templeあるいはrock-cut templeの漢語訳で、略して石窟、窟院ともいう。中国では敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)第17号窟を蔵経洞というように、個々の窟を洞とよぶこともある。現在もっとも古い石窟は、インドのビハール州にあるアージビカ派僧侶(そうりょ)の窟で紀元前3世紀に始まる。仏教窟は前2世紀ごろから現れ、石窟内にストゥーパを設けて礼拝するチャイティヤ窟(塔院)と、僧侶が修行する部屋を設けたビハーラ窟(僧院)の2形式ができ、しだいにビハーラ窟に仏像を置いて本尊として礼拝するように変化した。アフガニスタンでは紀元後4世紀にバーミアン石窟がつくられ、中国では4世紀中ごろに敦煌莫高窟がつくられ、やがて雲崗(うんこう)、竜門(りゅうもん)など各地でこのような形式の石窟が広まっていった。石窟内の壁面には信者に絵解きをするための釈迦(しゃか)の本生譚(ほんじょうたん)、仏伝図、造営者の伝記などを描いて荘厳(しょうごん)した。朝鮮半島では慶州石窟庵(あん)や軍威石窟でわずかに石窟寺院に似た形式が伝わっているが、日本ではさらに退化したものとして磨崖仏(まがいぶつ)がつくられただけで、本格的な石窟寺院は発達しなかった。

[江谷 寛]


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百科事典マイペディア 「石窟寺院」の意味・わかりやすい解説

石窟寺院【せっくつじいん】

岩山を掘って寺院としたもので,インド,アフガニスタン,中央アジア,中国の仏教寺院に多い。前4―前3世紀のインドに始まり,初期のものは1室からなるが,前1世紀ごろから構造が複雑化し,ストゥーパを中心とするチャイトヤ窟と多くの僧房で構成されるビハーラ窟の2形式が生まれた。その後,仏像が窟内に刻されるようになり,5世紀以後すぐれた仏像彫刻をもつ石窟寺院が造られた。インドのアジャンタ,エローラ石窟,アフガニスタンのバーミヤーンの石窟群,中国の敦煌(とんこう)莫高窟雲岡(うんこう)石窟竜門石窟麦積山石窟天竜山石窟響堂山石窟などが名高い。
→関連項目アジャンターウダヤギリエレファンタ石窟エローラ鞏県石窟バーグバージャーバーダーミ石窟バーミヤーンベゼクリク石窟マハーバリプラム

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石窟寺院」の意味・わかりやすい解説

石窟寺院
せっくつじいん

山崖や丘陵に掘り込んだ洞窟状の宗教施設の総称。通常はインド,中央アジア,中国などにある仏教関係のものと,主としてインドにあるヒンドゥー教,ジャイナ教関係のものをさす。施設の種類は多岐にわたるが,大別すると,礼拝対象の尊像やストゥーパ (仏塔) を祀るチャイティヤ (祠堂) 窟と,修行者 (僧) たちが居住するビハーラ (僧房) 窟とに分れる。石窟寺院の特色は一般の寺院に比べ耐久性が著しく強い点で,尊像の彫刻や壁画とともに,宗教美術史の宝庫ともいえる。インドの石窟は総数 1200以上に上り,約 80%が仏教関係で,その大半がウェスタンガーツ山脈の石灰岩地帯にある。年代のわかる最古の例はビハール州バラーバル丘とナーガールジュニ丘の石窟で前3~2世紀に属する。このほか主要なものとしてアジャンタ石窟エローラ石窟エレファンタ石窟カールリー石窟ウダヤギリ石窟バージャー石窟などがあげられる。アフガニスタンではバーミアーン石窟,中央アジアではキジル千仏洞クムトゥラベゼクリクなど,中国では敦煌莫高窟雲崗石窟竜門石窟などが代表的。

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旺文社世界史事典 三訂版 「石窟寺院」の解説

石窟寺院
せっくつじいん

岩壁に洞窟を掘って造られた寺院
前4世紀ごろからインドで造られ,仏教の伝播に伴って中央アジア・中国その他の諸国に影響し,東洋美術史上特筆すべき一連の石窟芸術を生んだ。彫刻・絵画・文献なども残され,貴重な史料である。インドには約1200窟が現存。アジャンター・エローラが有名。アフガニスタン・中央アジアにもインド式石窟群がある。中国では4世紀半ばすぎの敦煌 (とんこう) の千仏洞が始まりで,その他雲崗 (うんこう) 石窟・竜門 (りゆうもん) 石窟・響堂山 (きようどうさん) 石窟などがある。朝鮮では,新羅 (しんら) のころ,慶州付近に組立式の石窟庵が造られた。

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世界大百科事典(旧版)内の石窟寺院の言及

【魏晋南北朝美術】より

…西晋から五胡十六国にかけ,これらが金人,金像ともてはやされていたが,最古の後趙建武4年(338)の銘を持つ金銅仏座像は,すでにガンダーラ様式を感じさせぬように中国化している。しかしこの様式の金銅仏も,五胡十六国の終末と命運をともにし,5世紀になると,大規模な石窟寺院が営まれる。 石窟寺院の源流はインドにあり,アフガニスタンから中央アジアを経て甘粛に入り,まず敦煌莫高窟炳霊寺(へいれいじ)石窟麦積山石窟などが開削され,さらに東漸して雲岡,竜門などの石窟が造営された。…

【寺院建築】より

… やがて比丘たちもストゥーパを受容するようになり,ストゥーパと僧院よりなる伽藍が成立するが,その初期の形態はガンガー(ガンジス)平原の古い例が知られていないため不明である。前2世紀後期から盛んになる西部インドの石窟寺院は,内部にストゥーパを安置した祠堂窟1窟と比丘の住房である僧院窟数窟とを基本単位とする。僧院窟は紀元前後までには広間の3方に数個ずつの房室を並べる整然とした形式をとるようになる。…

【隋唐美術】より

…造寺造仏の頂点は高宗が発願し,皇后が化粧料を奉捨して成った洛陽の竜門奉先寺・本尊盧舎那仏であり,本尊は仏像の唐様式の完成を示している。石窟寺院は北魏についでさかんに造られ,隋では天竜山,雲門山,駝山などが開かれ,竜門にも造営された。隋から唐にかけては七尊形式はしだいに姿を消し,三尊・五尊形式の釈迦・阿弥陀の座像が好まれ,北魏の交脚像(弥勒)は倚座像にかわった。…

【チャイティヤ】より

…また初期の仏教徒の主たる礼拝対象であるストゥーパを指すこともある。チャイティヤ堂caitya‐gṛhaとはストゥーパを本尊とする祠堂であり,西部インドの仏教石窟寺院は祠堂と比丘の止住するいくつかの僧院とで構成された。チャイティヤ堂は,古くはストゥーパを安置する円堂,または円堂に長方形の前室を付加した形式をとる。…

【バーグ】より

…インド中部,マディヤ・プラデーシュ州インドールの西約150kmにある仏教石窟寺院。もろい岩質のために保存状態はよくない。…

【バージャー】より

…インド西部,マハーラーシュトラ州プネーの西約55kmにある仏教石窟寺院で,近くにはカールレーやベードサーの石窟もある。前2~後2世紀の22の石窟のうち,第12祠堂窟と第19僧院窟とは西部インド最古の石窟と考えられている。…

【仏像】より


【定義】
 仏教において主として礼拝の対象とされる彫刻や絵画による形像。一般的には彫像のみを指すことが多く,絵画によるものは仏画と呼んで区別する。仏画についてはその項を参照されたい。また仏陀の像のみを指す場合と,仏教の尊像すべてを総称して仏像と呼ぶ場合とがあり,前者を仏陀像,後者を仏教像として区別する必要がある。仏陀像は元来は仏教の開祖である釈迦仏に限られていたが,やがて過去仏や千仏の思想を生み,大乗仏教では阿弥陀,阿閦(あしゆく),薬師,毘盧遮那(びるしやな),大日(だいにち)などの仏陀(如来ともいう)が考え出された。…

※「石窟寺院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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