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竜門石窟 りゅうもんせっくつLong-men shi-ku

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

竜門石窟
りゅうもんせっくつ
Long-men shi-ku

中国ホーナン (河南) 省ルオヤン (洛陽) 市の南 14km,古くは伊闕石窟とも呼ばれた。石灰岩の岩山を開掘したもの。北魏,太和 18 (494) 年に始まり,孝文帝が洛陽に遷都後は盛大に造営され,唐代まで続いた。最初は西山の古陽洞がつくられ,景明1 (500) 年からは帝室の造営になる賓陽3洞が開かれた。蓮華洞もほぼ同じ頃に営まれた。竜門石窟の仏像群は雲崗石窟に次ぐ様式をもち,細面,長身の像で,衣文は整然と処理された特色を示す。外形上では初めは交脚像が多く,時代が下るにつれ写実性を増し,身躯も豊かになっていく。隋,唐代には西山の開掘が盛んとなり,奉先寺洞,恵簡洞など著名な石窟が開かれた。なかでも奉先寺洞は竜門最大の石窟で,本尊盧舎那仏は約 20mの高さに達し,写実的に優れた傑作。盛唐期には東山の看経寺洞,擂鼓台3洞などが開かれた。 2000年世界遺産文化遺産に登録。

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デジタル大辞泉の解説

りゅうもん‐せっくつ〔‐セキクツ〕【竜門石窟】

竜門にある石窟寺院。洞窟1350余、仏像9万7000余を数え、北魏の洛陽遷都(494年)から代中期に至る仏教美術の宝庫。敦煌(とんこう)雲崗(うんこう)の石窟とともに中国の代表的仏教石窟。2000年、世界遺産(文化遺産)に登録された。

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百科事典マイペディアの解説

竜門石窟【りゅうもんせっくつ】

中国,河南省洛陽の南,黄河の支流伊水の両岸にある石窟。造営は493年北魏の孝文帝の洛陽遷都と同時に始まって唐代まで続き,雲岡石窟敦煌莫高窟と並ぶ大規模なものとなった。
→関連項目石仏六朝文化竜門二十品

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世界大百科事典 第2版の解説

りゅうもんせっくつ【竜門石窟 Lóng mén shí kū】

中国,河南省洛陽の南14kmにある仏教石窟。伊水が北流し二つの山が岸をはさんで対峙し,形状が門闕(もんけつ)のようになっているので,伊闕または竜門と呼ばれた。石窟群は両岸の崖壁にあって,石窟1352,龕(がん)785を今かぞえる。大部分は西岸すなわち西山にあり,大窟28。東岸すなわち東山には唐代の窟が多く,大窟7を残している。北魏が帝都を平城から洛陽へ移したのは,494年(太和18)で,竜門の地が石窟造営の地となったのもこれ以後で,最古の石窟は正確に年代をきめがたい。

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大辞林 第三版の解説

りゅうもんせっくつ【竜門石窟】

竜門にある石窟寺院。493年北魏の洛陽らくよう遷都から唐の玄宗の756年までに造営されたもので、仏像彫刻の宝庫。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

竜門石窟
りゅうもんせっくつ

雲崗(うんこう)石窟と双璧(そうへき)をなす中国の代表的な石窟寺院で、洛陽(らくよう)市の南約14キロメートルにある。2000年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。石窟のある伊闕山(いけつざん)は伊河の流れを挟んで、西山と東山とに分かれ、石灰岩の岩壁に大小多数の洞窟をうがち、内部にはそれぞれおびただしい数に上る仏像が刻まれている。ちなみにその数は、洞窟1352、龕(がん)750、石塔39、仏像9万7306体と記録(竜門保管所)されている。石窟は北魏(ほくぎ)に始まり、隋(ずい)唐と続き、五代、宋(そう)にわたっているが、その主要な部分は5世紀末から7世紀後半に至る仏教美術の隆盛期に造営された。北魏窟のある西山の石窟群は古陽洞(こようどう)をはじめ、賓陽洞(ひんようどう)、蓮華洞(れんげどう)などが有名で、北魏仏像の優秀な作例が多い。また西山の中央にある奉先寺洞(ほうせんじどう)の大盧舎那仏(るしゃなぶつ)は高さ17メートル余の巨大な石仏で、脇侍(きょうじ)の菩薩(ぼさつ)像、羅漢(らかん)像、神王(しんのう)像、仁王(におう)像などとともに唐代彫刻の最高峰を極めた秀作で、その造像技術の冴(さ)えと品格の高さは特筆すべきである。唐の高宗、則天武后の造建になるもので、675年に完成をみた。また東山の看経寺洞(かんぎょうじどう)などはいずれも唐代の造営。東山の北には白楽天の墓がある。竜門の北魏仏は、雲崗のそれと比べて、造像技法もすこぶる繊細で、作風にも鋭さを内に秘めた優麗典雅な趣(おもむき)が表れている。仏像のもつ幽暗な表情、堂々たる体躯(たいく)、整斉な着衣と裳懸座(もかけざ)、勢いよく流れる雲に乗って飛ぶ神仙のような天人など、いずれも南朝仏像の作風の影響を受けている。
 石仏に添えられている造像記や願文も多彩で、北魏の雄勁(ゆうけい)な書風を伝えるものとして『竜門二十品』があり、中国書道史の貴重な資料となっている。[吉村 怜]
『水野清一・長広敏雄著『龍門石窟の研究』全3巻(1979・同朋舎出版) ▽久野健・杉山二郎著『龍門・鞏県石窟』(1982・六興出版) ▽龍門文物保管所・北京大学考古系編『中国石窟 龍門石窟』全2巻(1987、1988・平凡社)』

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世界大百科事典内の竜門石窟の言及

【魏晋南北朝美術】より

…ところが後期になると,漢化政策の一環として486年(太和10)に始まった胡服から漢族の服装への一連の服制改革により,仏像も褒衣博帯式の中国風衣装をつけ,中国化が進んだ。この傾向は494年,北魏が洛陽に遷都し,伊水に臨む西山に営んだ竜門石窟においていっそう本格化し,古陽洞,賓陽洞などはさらに北魏上流階級の貴族文化を反映して,繊細で装飾的傾向が目だった。これは近傍の鞏県(きようけん)石窟でも同様である。…

【浄土教美術】より

…しかし浄土信仰の台頭は5世紀初めの慧遠(えおん)による結社念仏をもって嚆矢(こうし)とし,6世紀以降北魏に曇鸞(どんらん),隋・唐期に道綽(どうしやく),善導が現れて中国浄土教の最盛期を迎えた。6世紀初めには竜門石窟において無量寿仏の名で阿弥陀如来が造立され,同じころから阿弥陀三尊や阿弥陀浄土を表す〈西方極楽浄土変〉(変相図)が作られるようになった。浄土信仰の最盛期を迎えた唐代には多くの浄土変が作られ,《歴代名画記》には長安や洛陽の寺院の壁画に多くの浄土変の存在が記録されている。…

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