須山村(読み)すやまむら

日本歴史地名大系 「須山村」の解説

須山村
すやまむら

[現在地名]裾野市須山

下和田しもわだ村の北西に位置する。富士山の裾野を占める村域は広大で、集落のある南東部から北西・北方向に延び、宝永ほうえい山の山頂直下付近まで続いている。東は駒門こまかど新田(現御殿場市)、北は印野いんの(現同上)で、本村の北西方に枝郷の十里木じゆうりぎ村がある。深山(元禄郷帳など)・素山・巣山・珠山などとも記した。富士山登拝路の一つ須山口(南口・東口・表口ともいう。富士山宝永噴火で一時中絶する)に発達した信仰登山口集落で、村内に下宮の一である浅間神社(須山浅間神社)が祀られる。文明一八年(一四八六)聖護院道興は葛山を越えたのち当地を訪れ、「すはま口といふ所よりふしのふもとにいたりて、雪をかきわけて」という詞書に続けて「よそにみしふしのしら雪けふ分ぬ心のミちを神にまかせて」という歌を詠んでいる(廻国雑記)


須山村
すやまむら

[現在地名]作手村清岳きよおか

市場いちば村の西に接し、ともえ山の東麓に位置する。古くは善福ぜんぷく寺の門前にあたり繁栄したという。慶長七年(一六〇二)より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領を経て安永六年(一七七七)から旗本鍋島直賢の知行地となって幕末に至る。慶応元年(一八六五)の助郷免除願書(三州長者平村所収文書)によると、村高一七六石余、うち善福寺領一八石余、荒地引八二石。戸口は一二軒・四八人である。

村域南部字太鞁屋敷たいこやしきに弥生期の遺跡があり弥生式土器や、内耳鍋なども出土する。字岩本いわもとにかつて円通山慈眼じげん寺があった。永正四年(一五〇七)春玉元玲の開創で、甘泉かんせん寺末であったが、天正年間(一五七三―九二)の兵乱で焼失。


須山村
すやまむら

[現在地名]上市町須山

大岩おおいわ川の支流須山川の上流に位置し、西は堤谷つつみだに村。極楽寺ごくらくじ村から山越えして当村に至る道が古くからあった(白萩小史)。かつて大岩日石につせき寺をめぐる外縁に真言宗寺院が多くあったが、現在は退転してわずかに正保寺しようほじ正源寺しようげんじ大源寺だいげんじなどの地名を残すのみとなっている(上市町誌)正保郷帳では高九六石余、田方五町七反余・畑方七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高一六七石、免四ツ、小物成は山役五二匁(三箇国高物成帳)。天保九年(一八三八)に手上高一〇石があり、都合高一七七石となる(同一一年「高免帳」杉木家文書)


須山村
すやまむら

[現在地名]大内町松本まつもと

いも川の中流右岸、東は母長根ははながね峠を境に長坂ながさか村、北はふもと村と接する。

慶長一七年(一六一二)の進藤但馬守某日野備中守某連署状に岩屋領の一村として村名があり、寛永二年(一六二五)の由利御知行之内打直分免定覚に七五石二斗八升一合、納米三七石六斗四升一合、免五ツとある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)では八七石九斗とあり「水損所 新開有」と記される。


須山村
すやまむら

[現在地名]鳳来町連合れんごう

寒狭かんさ川と当貝津とうがいつ川との合流点の東にあり、標高三〇〇メートルほどの高原に立地。西海老にしえびから須山に登り、現在の市代いちじろ橋付近で寒狭川を渡る道は、西三河方面に通じる重要路線で、大正年代(一九一二―二六)まではよく利用された。


須山村
すやまむら

[現在地名]奈良市須山町

和田わだ村と此瀬このせ村西方にある。「大乗院雑事記」明応二年(一四九三)一〇月二四日条に「卅二文南田原 卅二文スヤマ」とある。和田村からの分村。元禄郷帳の村高は一四四・三八石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android