飯野八幡宮(読み)いいのはちまんぐう

日本歴史地名大系 「飯野八幡宮」の解説

飯野八幡宮
いいのはちまんぐう

[現在地名]いわき市平 八幡小路

磐城平いわきたいら城跡の西側の八幡小路はちまんこうじにあり、別名平の八幡さま。祭神は品陀別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・比売神の三座。旧県社。延宝九年(一六八一)の飯野八幡宮縁起奥書(飯野八幡宮文書、以下同文書)や岩城郡八幡宮縁起注進状案などは文治二年(一一八六)七月一〇日右大将源頼朝の命により山城石清水いわしみず八幡宮から御正体を奉じ、八月一〇日好島よしま庄に下着し、赤目崎あかめがさき見物岡みものがおかに社を建立したと記しているが、ほかの飯野八幡宮の由来などは康平年間(一〇五八―六五)源頼義が前九年の役のとき石清水八幡を勧請し、その後八幡太郎義家が修復を加え、さらに源頼朝が社頭の補修をしたと記し来歴を古くしているが、その後についてはすべての記録が同一のことを記している。文治五年の奥州合戦後岩城太郎清隆が好島庄の地頭、千葉介常胤が預所となり、当社の別当に清隆の嫡子師隆が就任、同時に一二口の供僧を置く。正治二年(一二〇〇)常胤の四男大須賀胤信が預所となる。元久元年(一二〇四)社殿の造営を始め同三年完成。建永元年(一二〇六)北条政子が本願となって社殿を遷宮、承元三年(一二〇九)経蔵が完成。建暦元年(一二一一)四月一五日御正体御浜出(塩垢離)、これより先承元二年好島庄三ヶ郷のうち西一郷の預所を大須賀胤村とし、三年後に三浦義村に代わる。宝治元年(一二四七)宝治合戦により三浦資村が討たれ、伊賀光宗が預所となる。現宮司飯野氏は光宗の子孫で、以後代々預所と宮司を兼務する。当社の造営は鎌倉時代においては東西好島庄の地頭・預所らが勤めるのを例としていた。

建武二年(一三三五)春兵火のため本社焼失、伊賀盛光は足利尊氏に訴え再び本宮を造営する。貞和二年(一三四六)放生会における流鏑馬神事を初めて行う。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「飯野八幡宮」の解説

飯野八幡宮

福島県いわき市にある神社。源頼朝が1186年に創建したとされる。本殿神楽殿、唐門などが国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の飯野八幡宮の言及

【伊賀氏】より

…光宗の子光綱の流れは陸奥国磐城好島荘西方預所職を世襲し,在地領主として権力を拡大。しかし室町時代になるとしだいに岩城氏の圧迫を受け,伊賀氏は飯野氏と称して飯野八幡宮(現,福島県いわき市)宮司職をもつ小勢力に衰えていった。伊賀氏の変【青山 幹哉】。…

【好島荘】より

…福島県いわき市北部を占めた荘園。1186年(文治2)陸奥国岩城郡飯野郷赤目崎(のち平城の地)に石清水八幡宮より御正体を勧請して岩城郡八幡宮(飯野八幡宮)が創建された。好島荘はその神宮領として立荘されたものであるが,事実上は関東御領であった。…

※「飯野八幡宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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