餅田村(読み)もちだむら

日本歴史地名大系 「餅田村」の解説

餅田村
もちだむら

鎌倉時代から南北朝時代にみえる村名。帖佐ちようさ郷に含まれており、南北朝期以降は餅田・餅田名とみえる。別府べつぷ川右岸の現東餅田・西餅田などの一帯に比定される。桑幡本などの大隅国建久図田帳に村名はみえないが、帖佐郡(帖佐郷)の公田六八町四段半に「丁別廿疋、村々十箇所」と記されており、この一〇ヵ村のうちに含まれていたと考えられる。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西ちようささい郷二四〇町九段三〇〇歩内の公田一四三町五段のうちに「餅田廿七丁四反小」とみえ、領主は御家人税所介義祐であった。税所氏は大隅国の在庁官人として大介兼税所職・押領使職などを所持していた。税所氏系図抄(国分郷土誌)によると、義祐は篤茂(篤用)の孫にあたり、建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人交名(旧記雑録)に国方御家人としてみえる税所篤用の直系であった。


餅田村
もちだむら

[現在地名]江刺岩谷堂いわやどう

片岡かたおか村の南東に位置し、北上高地の西端部丘陵と、西部は北上川沖積平野に立地し、西境人首ひとかべ川が南流する。持田とも書かれた。延喜式内社に比定されている鎮岡しずめがおか神社がある。藤原清衡平泉本拠を移す以前の居館豊田とよだ館の擬定地がある。「正法年譜住山記」康応元年(一三八九)の条に「江刺郡持田之郷内源藤太郎作千苅清秀寄進」、応永六年(一三九九)の条に「聖寿院之寄進上田ニ三千苅正端与正阿弥ノ弔分ナリ(中略)江刺郡持田ニ千苅為清秀也」とみえる。餅田郷内の一千刈を二度にわたり寄進した清秀は、月山良印禅師行状記(米沢瑞雲院蔵)中の月泉法嗣帳に「八番清秀居士 葛西壱岐守平清泰 江刺之祖也」とみえ、当地は葛西(江刺)氏の支配下にあった。


餅田村
もちだむら

[現在地名]門前町餅田

五十洲いぎす村の北東皆月みなづき湾の中央傾斜地を後背とする海岸に立地。持田村とも書く。皆月湾に面する高台館平たちのひらと称する地があり、中世の館跡と伝える。「七浦村志」では東西四五間・南北二五間、付近に的場まとば洗馬あらいうま二ッ谷ふたつだに堀の腰ほりのこし垣外かきのそとなどの地名があり、大館氏の館跡との伝を記す。中世は志津良しつら庄の内。大永元年(一五二一)から天文五年(一五三六)頃と推測される渓和尚志津良庄年貢帳(棘林志)に「餅田」とみえ、五〇八束の田地があった。天正一五年(一五八七)七月四日の年貢算用状案(刀禰文書)によると、前年分の持田村の荒高は一四一俵余であった。


餅田村
もちだむら

[現在地名]大館市餅田

米代・長木ながき両河川の合流点に向かって延びる大館舌状台地西端部に位置する。東は大館町。羽州街道が通じるほか、長木川越しに沼館ぬまだてへも街道が延び交通上の要衝をなす。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「先には大堀村と申屋敷田に成、六十年以前家十三軒餅田村と云」とみえ、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に沼館の内大堀村とみえる。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では当高二〇九石余。幕末の「郷村史略」では大館町枝郷。享保一五年の戸数は二五軒(六郡郡邑記)で、以後の村勢は安政四年(一八五七)三八戸、一五五人、同七年四一戸、二三七人(大館市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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