高平村
たかひらむら
[現在地名]白沢村高平
上古語父村の東、沼田盆地の東端に位置する。上古語父村からきた会津街道は当地で二筋に分れ、一は北東方白沢川の上流栗生峠を越え、一は東の生枝村に向かう。曹洞宗雲谷寺があり、旧蔵の文明五年(一四七三)の鐘銘に「上州利根庄高平山雲谷禅寺」とみえる。「加沢記」に「雲国寺と申は元徳三年大師和尚薩摩国より下り開基し給て保鷹山と号無双の霊域也、薩州雲祥寺の末寺也、近代に至て慈眼山舒林寺の末寺なり」とみえるほか、同書や「沼田根元記」に散見、天正三年(一五七五)には真田昌幸が宿陣している。また「加沢記」に載せる同八年二月四日の真田昌幸書状によると「高平之内雲国寺并門前屋敷」が和田屋敷(現沼田市)の住僧に宛行われている。
高平村
たかひらむら
[現在地名]佐賀市巨勢町大字修理田
長崎街道と蓮池往還の間、高尾村・平尾村・柳原ヶ里村の南にある東西に長い村。東分と西分に分れた低平な水田地帯で、西分・東分・角町など堀に沿ったり囲まれたりしている集落である。正保絵図に村名がみえる。
寛政元年(一七八九)の巡見録によれば石高四二四石四斗一升、家数四〇軒とある。佐賀本藩の蔵入地。庄屋の惣左衛門は巡見使から一里塚橋の西南で水車で水を入れて水田をかきならしているのを「あれハ田を鋤か」と尋ねられ、「一反五、六人手間相懸」と答え、巡見使は「きつい難儀を致すこと」と同情を寄せている。
高平村
たかひらむら
[現在地名]熊本市清水町高平
南流する坪井川右岸の丘陵地斜面にあり、東は高平打出村、南は打越村に接する。「国誌」に「里俗高平本村ト云」とあり、慶長年間(一五九六―一六一五)には一村であったが、その後当村と高平打出村・高平下村に分れた。慶長九年九月の検地帳では田方二二町余・畠方二一町四反余、分米四一〇石二斗余。同一三年の検地帳では給人加藤右馬亮の分として田方七町六反余・九七石八斗余、畠方一六町余・一一六石三斗余、給人江村宗具の分として田方八町二反余・一〇四石三斗余、畠方二反余・九石五斗余がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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