高柳郷(読み)たかやなぎごう

日本歴史地名大系 「高柳郷」の解説

高柳郷
たかやなぎごう

現高柳を中心とする一帯に比定される中世郷で、下河辺しもこうべ庄に属した。当時の利根川流路に接して自然堤防が発達し、また高柳砂丘が発達するが、砂丘の基部からは中世の人骨が出土している。北の佐間さま地区の小草原こくさばらから出土した中世墓地の蔵骨器には瀬戸常滑陶磁器が使われており、鎌倉街道と伝承される古道が通り、また利根川を川口かわぐち(現加須市)へと渡る川口渡があるなど、地形上も交通上も恵まれていた。永徳二年(一三八二)二月二三日の足利氏満寄進状(神田孝平氏旧蔵文書)に「下総国下河辺庄内高柳郷」とみえる。当地は秀郷流高柳氏の本貫地と考えられており(居館の位置は定かではない)、その祖行元(行基)は「吾妻鏡」養和元年(一一八一)二月一八日条に大河戸重行の子息として「三郎行元号高柳」とある。


高柳郷
たかやなぎごう

金田かねだ保内の郷で、高柳一帯に比定される。「高柳村」ともみえる。康暦二年(一三八〇)八月三日の室町幕府管領奉書(金沢文庫文書、以下同文書は省略)に「金田保内高柳郷」とあり、管領斯波義将が金沢称名寺の所領と町野刑部少輔長康の所領高柳郷の交換を認めている。この交換は永徳元年(一三八一)八月三日には将軍足利義満に認められ、至徳元年(一三八四)六月二五日には鎌倉公方足利氏満が称名寺の高柳郷支配安堵し、次の公方の足利満兼も応永九年(一四〇二)三月二三日に安堵の御教書を出している。

年未詳の高柳村炭銭目録(段銭目録か)によると田積は計一四町四反一〇歩、三郎丞名・大入道名といった百姓名一四で、一つの名で一町強の田をもつ場合が多く、段別三四文の段銭が賦課されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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