英語alienation,フランス語aliénation,また特にドイツ語Entfremdung,Entäusserungの訳語。後者は〈外化〉〈疎外化〉とも訳される。哲学用語としては,sich(selbst)eines Dinges(またはeinem Dinge)entfremdenのように,再帰的に用いられる。この再帰用法を名詞化すると〈自己疎外Selbstentfremdung〉となるが,ヘーゲルにこの〈自己疎外〉という名詞形の語法はない。古くから離反Entfremdung,断念・譲渡Entäusserungの意で日常語として用いられ,またラテン語のalienatio(譲渡)の訳語としても用いられ,〈神からの人間の離反〉という意味で神学上の用語ともなったが,哲学的にはフィヒテが用いて以後,ヘーゲルの《精神現象学》で重要な術語として確立され,マルクスの《経済学・哲学草稿》の中心概念となる。人間が自分に固有の本質を,自己の外に彼岸化し,対象化しているあり方を指す。例えば〈自己からの離反〉が,自己を放棄して神に献身するという意味で〈彼岸の神との合一〉になる。しかし,そのように自己を対象化することで自己の本質の認識が可能になるのであり,したがって古来の〈神からの離反〉という意味とは区別される。
ヘーゲルによれば,人間は自己の本質を,内面的な確信によるだけではとらえることはできない。人間の本質は,良心,愛,理性,共同性にある。人間はまず,己一個の生命,財産,名誉というような〈自分に固有なもの〉を投げすてて,己の本質であるものに献身しなくてはならない。献身(もしくは労働)という自己否定がなければ,自己の本質は内面の暗がりから外に出る(外化・発出=本領の発揮)ことができない。本質が現象しないのである。しかし,献身とは自分を他者にゆだねることである。〈自分に固有のもの〉が〈他者のもの〉になってしまい,外化・自己実現がかえって他有化・自己喪失となる場面が固有の意味での〈疎外〉である。本質を中心に考えると,個人が自己の本質(普遍)を疎外することが,本質(理念)を具体化・現実化する。正義という理念は,正義への献身がなければ,空語である。彼岸的・イデア的理念が,あらゆる現実を超越しているように見えるのは,実は個人がその理念のために自己を放棄しているからである。オミコシが神格をもつのは,個人によって担がれているからである。この“オミコシ担ぎ”の構造が,社会的理念一般の構造になる。王は王であるがゆえに王と呼ばれるのではなく,王と呼ばれるがゆえに王なのである。正義,理性,真理,権力,価値等々の社会的妥当性をもつ,それ自体理念的なものは,それへの献身,疎外を通じて実現される。
私に固有のものが,同時に,〈私に固有のものとして,妥当し,通用するもの〉でなければならない。私の個性ですらも,個性として妥当するためには,個性という類型にならざるをえない。〈個性的な人間〉とは,人間だれしもがもつ個性を具備した人間なのではなく,〈個性的〉という類型にかなった人間のことである。私の固有のものとしての財産Eigentumは,所有権という類型の中で承認される。私が所有権をもつとは,譲渡の権利を承認されていることである。譲渡とは,〈私のもの,私の財産〉から〈私性〉を分離して,一般化する疎外化によってなりたつ。譲渡によって疎外化がなりたつのではなくて,疎外化によって譲渡がなりたつ。私に固有のものが固有のものとして通用すること自体が,固有性の喪失・他有化である。私が自己の本質である正義を疎外化して,王という権力を支えるとき,王権という自立的なものが,私のへつらいという自己喪失に依存する非自立的なものになる。固有が他有であり,自立が依存であるという倒錯が,疎外の世界にはなりたっている。ここでは何ものも〈他の何かのために〉という非自立性のあり方で通用する。自己に最も固有な良心でさえ,教会という他者に依託される。疎外の世界の観念形態は,彼岸性である。
ヘーゲルが疎外という彼岸性を克服すべく提起したものは,(1)人間存在の共同性が社会意識によって疎外されるのではなく,自覚化されるような真の共同社会の実現,(2)宗教という疎外の極限形態の〈絶対知〉への止揚,(3)たんに義という本質(普遍)の支配ではなくて,〈ゆるし(和解)〉という,普遍と個の生きた媒介という内容であった。
B.バウアーが〈自己疎外〉という用法を用いたとき,人間の本質は自己意識であり,神はその人間の疎外態であるという意味が明確になった。つまりヘーゲル解釈を宗教批判の方向にすすめたのである。L.A.フォイエルバハにおいて,人間の本質は感性的人間の類的本質にある。〈類〉の概念は,ヘーゲルの自然哲学における人間観から採られている。そして,彼は自然的人間観にもとづいて,〈神学者ヘーゲルは疎外の立場にある〉と言う。つまり,宗教批判がヘーゲル批判になる。
フォイエルバハの宗教批判の方法をマルクスは政治批判に拡張する。ヘーゲルでは国家に人間の類性(普遍と個の調和の理念)が実現される。国家は市民社会の上に立ち,市民社会の分裂を克服する。マルクスは,自然的人間の現実を市民社会に設定して,フォイエルバハとヘーゲルの限界をともにこえる。市民社会において,ヘーゲルの指摘している労働による類の実現が私有財産制度のために疎外されるならば,もはや国家による〈理念の実現〉は幻想的な虚偽のイデオロギーにほかならない。
マルクスの《経済学・哲学草稿》が1930年代に公刊されたときは,実存主義の台頭期でもあった。疎外概念が,実存主義の社会批判と重ね合わされる。同時に,第2次大戦後は,ソビエト体制の非人間性を告発する論点としても,マルクスの疎外概念が用いられるようになった。組織と官僚制における,人間(単独者としての個人)性の喪失が〈疎外〉と呼ばれる。逆に小集団論では,親密な第一次集団から個人が〈仲間はずれ〉になる傾向,すなわち孤立化という意味でも〈疎外〉が用いられる。つまり,個人の本質を,個体性(単独者)におく見方からも,共同性におく見方からも,現代における人間喪失を表すものとして疎外概念が用いられている。これは,ヘーゲルが疎外概念を確立したときにすでに設定されていた〈人間の個的自己の本質が共同性になる〉という,自己矛盾的構造が解体されて,疎外概念そのものの自己矛盾的な用法となったと見ることもできる。
→物象化
執筆者:加藤 尚武
人間の労働は本来,自己の主体的・創造的エネルギーを発揮して自然に働きかけ,その工夫と努力が対象化された生産物の他人による享受を通して,人間が共同的な存在であることを確証する営みである。しかし賃労働を基礎とする資本主義の下では,生産手段と生産物は資本家の所有に属しているため,労働の成果は労働者を支配する新たな資本の蓄積に寄与し,労働の過程は物的資本としての機械に強制された苦役となる。その結果,製品を媒介とする他人との交通関係もまた見失われる。人間の本質を具現させる内的な力であるはずの労働が,このように人間に対立し人間を抑圧する外的な力としてあらわれる。労働疎外は,1840年代の青年マルクスによってはじめて,以上のようにその概念を与えられた。
現代の労働疎外については,主として大量生産工場の労働実態や労働者意識に関して調査研究を進めた,1960年代以降の欧米社会学が具体的なイメージを与えてくれる。労働者は例えば,労働の内容や方法やペースを選ぶ力を奪われており,労働の組織内での役割も社会的な意味も実感できず,したがって労働を内的な自己を発現する行為としてではなく単に報酬を得るやむをえぬ行為とみなしている。多くの労働者,サラリーマンにとって,これはなじみ深い状況であろう。〈本来の人間労働とはなにか〉を追求するための労働疎外概念は,それゆえ,現代の体制を批判する有力な視点を提供する。もっとも労働疎外を生み出すこの〈体制〉をどう理解するかについては,マルクスの原典に忠実に,それを資本主義という生産関係に一元化して把握する論者と,大量生産技術,分業組織,労務管理方式などの独自的な役割を視野に入れて,社会主義の下でも労働疎外が発生する可能性を認める論者の間に論争がある。
執筆者:熊沢 誠
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間の社会活動による産物、たとえば、労働活動による生産物や社会関係、あるいは頭脳活動による観念、思想、芸術などが、それ自身あたかも生命を与えられたように自己活動し、それによって独自の力をもつかのように現れ、それらを生み出した人間自身に対して、逆に彼を支配してしまう疎遠な力として現れるようなことをいう。この状態では、人間の活動は当の人間に属さない外的な、疎遠なものとなり、そのことによって、人間の本質は取り除かれ、また他の人間との社会関係もゆがめられてくる。
[似田貝香門]
疎外の基本的状態は、まず自己疎外Selbstentfremdung(ドイツ語)として現れる。人間の自己の内にある人間的本質が、人間的活動によって外化(がいか)Entäußerung(ドイツ語)される。ところが、自己が外化した人間的本質が自己から自立して疎遠となり、逆に自己を支配してしまうに至るのである。
[似田貝香門]
自己が自己であることを拒否され、本来の自己に対立する状態に置かれるという考え方は、ドイツ観念哲学に発する。フィヒテは、この状態を自我の活動の疎外による非我(対象世界)の成立のうちに認め、ヘーゲルは、フィヒテの主観的観念論の立場を超えて、対象世界(自然)は「疎外された精神」だと考えた。つまり「精神」が自己を対象化することがすなわち疎外であったのである。「精神」は、自己を疎外しかつそれを自己のうちに取り戻す作業を通じて「絶対知」に到達できるとした。したがって、ヘーゲルにおいては、疎外は「精神」の問題としてとらえられたので、疎外からの回復も、認識活動によって容易に可能と考えられた。フォイエルバハは、このヘーゲルの「精神」が、キリスト教における神と同様、抽象化され絶対化された人間の本質にすぎないことを指摘し、この絶対化に疎外をみた。つまり、宗教とは人間の本質の疎外によるものであると考え、また観念論は理性の疎外によるものとし、それらを批判した。しかし彼は、こうした疎外の根源を暴いたが、それを廃止する基礎を示しえなかった。
[似田貝香門]
マルクスは、ヘーゲル、フォイエルバハの両者を批判的に継承して、疎外の概念を完成させ、そこに彼のヒューマニズムの基点を据えた。彼の初期の論文「経済学・哲学手稿」(1844)に疎外論が展開された。ここでは疎外は四つの側面から把握されている。
(1)労働の対象化されたものが人間主体から自立し、対立的に現れる(労働の成果からの疎外)、(2)労働は生の目的でなく手段となり、人間らしい生活が労働以外の場に求められる(自己疎外)、(3)人間の存在を個人的な現存の手段にしてしまう人間の普遍性の疎外(類からの疎外)、(4)人間の人間からの疎外。この疎外された労働は、労働過程が資本家的生産過程として行われることから生じることを明らかにした。ここからマルクスは、人と人との関係が物と物との関係として表される商品世界における疎外と、労働力が商品となり労働がその使用価値となる資本主義的生産における疎外とを問題にしていった。
[似田貝香門]
疎外状態を取り除くには、疎外を生み出す私的所有と私的労働を廃棄して、生産手段の社会的所有と直接に社会化された共同労働に基礎を置く社会を実現すべきであるとするのがマルクス主義の疎外解除の立場である。これに対し、サルトルらの実存主義の立場では、それだけでは十分でないとする。(1)手段や資源が個人や社会全体の存続に必要な量に対して相対的に不足しているような事態(希少性)がなくならない限り、(2)人間の実践が「実践的惰性態」のなかにある限り、疎外の最終的な解除は不可能とみた。
[似田貝香門]
現代社会においては、テクノロジーの発展と資本主義の高度化によって、労働における疎外、マス・コミュニケーションを通じての大衆操作にみられるような疎外、官僚支配による組織からの疎外などが深化してきている。哲学ばかりでなく、社会学や社会心理学は疎外状態に対応する社会的性格を問題にした。フロムは疎外を「人間が自分自身を例外者として経験する経験様式」(『自由からの逃走』1941)と規定し、疎外への対応としての社会的性格として、(1)搾取的性格、(2)貯蓄的性格、(3)受容的性格、(4)市場的性格の四つの類型をあげている。疎外を経験としてとらえ、それを実証的につかむ研究も行われてきた。
たとえばアメリカの社会学者シーマンMelvin Seeman(1918― )は、現代のテクノロジーの発展による工場のオートメーション化によって、作業工程で単純作業や単調労働が増加することから、(1)無力感、(2)無意味さ、(3)無規制感、(4)孤立感、(5)目的喪失感または自己疎外感などの調査項目から経験レベルでの疎外をとらえた。疎外の過程は全体社会の現象であるから、それを社会経済構造と普遍の個人の性格構造との相互作用において把握する必要がある。
[似田貝香門]
『城塚登著『新人間主義の哲学』(1972・日本放送出版協会)』▽『似田貝香門著『社会と疎外』(1984・世界書院)』▽『清水正徳著『人間疎外論』(紀伊國屋新書)』▽『F・パッペンハイム著、粟田賢三訳『近代人の疎外』(岩波新書)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…われわれは他人の身体に他人の存在を理解する。他者を介して総合される私の存在から,〈私の所有〉が疎外化されて,私の主体性は,所有権として権利化される。権利は人間相互の交換(譲渡)において承認される。…
※「疎外」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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