高足郷(読み)たかしごう

日本歴史地名大系 「高足郷」の解説

高足郷
たかしごう

和名抄」高山寺本は誤って当郷を麻殖おえ郡の項に記し、同本および同書伊勢本・東急本とも「多加之」と読む。同書名博本は「タカシ」の訓を付す。近年徳島市観音寺かんのんじ遺跡から「波尓五十戸税三百□ 高志五十戸税三百十四束」と記された木簡が出土し、当郷が七世紀後半にまでさかのぼる歴史をもつことが明らかになった。当郷について、「阿府志」は「此県ハ高原・中島・東西覚円・瀬部・高瀬・高磯遍此地ナリ高志トモカケリ」としている。瀬部せべ高瀬たかせ高磯たかいそはいずれも現吉野川本流北岸の現板野いたの上板かみいた町に属するが、昭和三〇年(一九五五)までは旧名西郡高志たかし村に含まれていた吉野川沿いの集落である。すなわち「阿府志」は現吉野川北岸の旧高志村と南岸の東覚円ひがしかくえん・西覚円(旧名西郡藍畑村、現石井町)および高原たかはら中島なかしま(旧同郡高原村、現石井町)とを含めた現吉野川本流に沿った低湿地一帯に比定している。


高足郷
たかしごう

「和名抄」所載の渥美郡高蘆たかし郷の地に属し、平安時代末期、おそらく平氏関係者の所領となり、高足庄と称したらしい。後世俗説では、「高足庄司」が二川ふたがわ付近で高雄山の文覚を襲ったといわれる(三河雀)平家没落によって収公され(建久已下古文書)、その一部は伊勢神宮内宮領高足御厨となった。

その後は建武三年(一三三六)二月六日の後醍醐天皇綸旨(白河結城文書)によって結城宗広の所領となり、延元元年(一三三六)四月より顕朝へ、応安二年(一三六九)六月より満朝へ、応永四年(一三九七)一〇月氏朝へと伝領された(同文書)。しかしこの頃には結城氏の実質的支配は行われなかったようで、「御前落居記録」永享四年(一四三二)四月二六日の引付によると、疋田彦三郎長利が当郷中に勢力をもち、応永七年一二月、同一七年九月の御教書をえて当郷を知行していたことが知られる。


高足郷
たかしごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「名跡志」は立石たついし(現藤岡市)を遺名とする。「日本地理志料」も上立石・下立石、さらに笛木ふえき落合おちあい(現多野郡新町)を含めた地とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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