改訂新版 世界大百科事典 「魚住泊」の意味・わかりやすい解説
魚住泊 (うおずみのとまり)
天平年中に僧行基(ぎようき)が開いたと伝える摂播五泊(ごはく)(河尻,大輪田,魚住,韓(から),檉生(むろう))の一つ。間隔は当時の1日航程で,魚住泊は兵庫県明石市西郊の江井島(えいがしま)港にあたるといい,〈しょうにんさんのはと〉と呼ぶ突堤や,近くには行基開創と伝える長楽寺もある。付近一帯は海食のはげしい洪積段丘で,築造後も破壊がはげしく,832年(天長9)清原夏野の奏状によってその修築を播磨国衙に命じ,867年(貞観9)に東大寺僧賢和が石椋(いしくら)を修築したが,914年(延喜14)には三善清行が意見封事のなかでその修築を奏したことから,すでに破損していたことがわかる。その後1196年(建久7)には重源(ちようげん)がその修築を申請,弟子重聖がこれをつぎ,1289年(正応2)宣旨により僧性海が10年を期して築島に着手した。潮流のはげしい明石海峡の潮待ちの港であったらしく,造船技術と航法の発達で魚住泊の必要性が低下すると地方的小港に転落した。1445年(文安2)の《兵庫北関入船納帳》には,船上(ふなげ),林,松江,栄嶋(えいがしま),二見とならぶ小港になっている。しかし魚住の古名もなお存したことは,別所長治の三木城への兵粮補給が魚住より陸揚げして失敗したことでもわかる。《万葉集》には名寸隅(なきすみ)とみえ,魚住(なすみ)と書かれたのが魚住(うおずみ)になったと説明されている。
執筆者:石田 善人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報