鯰江庄(読み)なまずえのしよう

日本歴史地名大系 「鯰江庄」の解説

鯰江庄
なまずえのしよう

愛知川右岸に位置した奈良興福寺領庄園で、現在の愛東町鯰江を中心とした地域に比定される。地名は地域開発の要となった愛知川からの引水による河川に鯰が多く生息したことに由来するといわれる。文永五年(一二六八)正月日の鯰江庄由来記(春日神社文書)によれば、秦朝元が開墾し、下司に補任されたと伝え、その時期は奈良時代にさかのぼると推定されるが、確かなところは不明。翌六年二月日の興福寺大供僧大法師等申状案(福智院家文書)は元正天皇・聖武天皇二代の勅願地であると記し、弘安八年(一二八五)一一月二五日の興福寺送進文書目録(春日神社文書)には「鯰江庄天皇御起請」文の存在が記され、当庄が天皇勅願起請の地であった可能性を示唆している。また、「大乗院寺社雑事記」長禄二年(一四五八)五月三日条にみえる「天平勝宝元年五月廿五日、孝謙天皇之御寄進也、厳重無双之御願也」という一文は、成立時期を推定する有効な史料の一つとなる。当該史料が残らず、古代の歴史はよくわからないが、庄域には春日社の分祀も多く、春日神人が存在するなど、近江における興福寺領のなかでも有数の初期庄園であったらしい。興福寺の大供料所として位置付けられていたが、治承・寿永の内乱に際して大供米の運上が滞るなど、一時的な荒廃が伝えられている(「大乗院寺社雑事記」文明一八年三月七日条)。元亨元年(一三二一)一二月八日の鯰江庄大供米注文(春日神社文書)によれば、大供米は二〇九石余を基本としたらしいが、そうした貢納とは別に、中世の当庄は近江における興福寺の雑事系庄園として、寺院経済を支えるうえで重要な役割を果した。文永二年の興福寺人夫召注文(内閣本大乗院文書御参宮雑々)にみられるような、かなりの数にのぼる人夫役の賦課維摩会や春日八講・慈恩会などの寺院行事にかかわるさまざまな公事物供出はその一例である。当庄と興福寺の関係は、中世後期にかけて多様化するものの基本的には変わらない。「大乗院寺社雑事記」などからは上記のほか、法華会・仏生会、それに七堂灯油代銭納などの鯰江庄への賦課記事を多くみることができる。

鎌倉時代中期に繰広げられた当庄の下司職をめぐる相論はよく知られ、興福寺という一大権門領主の庄園支配と守護佐々木六角氏を核とした在地勢力による地域支配との葛藤の歴史でもあった。争奪の模様は、文永五年に当庄の供目代英全が作成した前掲鯰江庄由来記と、文永四年一〇月一六日に「百姓注進」に任せて書写されたという鯰江庄下司職相承系図(大和大東家文書)によって詳細が判明する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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