日本の城がわかる事典 「鳥越城」の解説 とりごえじょう【鳥越城】 石川県白山市(旧石川郡鳥越村)にあった山城(やまじろ)。二曲(ふとうげ)城(白山市)と一緒に国史跡に指定されている。大日川と手取川の合流点にある鳥越山の丘陵の先端部(標高312m、比高130m)に築かれた、東西約400m、南北約1200mの城域をもった城である。この城域に本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸の5つの郭と、3つの腰郭を配した輪連郭式の縄張りを持っていた。この城は、天文年間(1532~54年)に一向一揆の軍事拠点として、一揆集団の山内衆を率いた鈴木出羽守により築かれたといわれている。その後、元亀から天正年間の前半(1570~80年)にかけて、織田勢の加賀侵攻が必至の情勢となる中、その備えとして修築・拡充が行われた。織田信長は1580年(天正8)、北ノ庄城(福井県福井市)城主の柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、勝家は加賀に侵攻して一揆の本拠の金沢(尾山)御坊(のちの金沢城、金沢市)を攻略した。本拠を失った一揆勢は、鳥越城に拠点を移し、二曲城とともに徹底抗戦を継続したが、同年、勝家の猛攻を受けて落城し、城主の鈴木出羽守とその一族は謀殺された。その翌年、一揆勢は城の奪還に成功するが、勝家麾下の佐久間盛政によって鎮圧された。このときの織田勢の一揆に対する弾圧は熾烈をきわめ、山内7ヵ村の門徒衆を捕らえて磔刑にしたといわれる。こうして加賀一向一揆は滅びた。鳥越城はその後、織田氏の城となったが、廃城の経緯は明らかではない。1977年(昭和52)から3年にわたる城跡の調査を経て、1985年(昭和60)に国指定史跡になった。現在、城跡には曲輪(くるわ)・石垣、土塁、堀切、空堀、井戸跡などの遺構が残っている。1990年(平成2)から発掘調査が行われ、城址としての整備が進められ、2001年(平成13)に復元整備が終了した。城跡の遺構は一揆勢が築城・整備したものと、その後、織田氏の勢力により改修・整備されたものが残っている。たとえば、虎口の石垣や礎石を持つ建造物は織田勢によるものと考えられている。本丸の櫓(やぐら)門・枡形門、井戸などの模擬建造物がつくられている。なお、鳥越山の麓にある道の駅「一向一揆の里」には鳥越村一向一揆歴史館が併設され、一向一揆に関する史料の展示やビデオの上映が行われている。北陸鉄道石川線鶴来駅からバス。◇別宮城ともよばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報