(芳賀紀雄)
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奈良時代の政治家,歌人。長徳(ながとこ)の孫,安麻呂の長男。母は巨勢郎女(こせのいらつめ)。家持の父。710年(和銅3)1月,左将軍正五位をもって《続日本紀》に初めて名があらわれ,718年(養老2)3月中納言に任命される。720年3月征隼人持節大将軍となり,大宰府管内の隼人の乱を平らげて京に帰った。神亀年間(724-729)に大宰帥となって筑紫に下り,着任後ほどなく妻大伴郎女を失った。後,730年秋大納言に任ぜられ,同年12月京へ向かって大宰府を去る。731年1月従二位となり,同年7月死去。67歳。《万葉集》に見られる旅人の作品は,ほとんどが大宰府に赴いてからのものである。もとより青年期,壮年期の作品がまったくなかったわけではあるまいが,旅人の歌人としての評価は大宰府以後の作品をもって決定される。その主なるものは〈酒を讃ふる歌十三首〉〈松浦川に遊ぶ序・歌〉〈京に向ひて上道する時〉以後の亡妻を思う歌などであって,これらの歌には深い漢文学の教養と純粋な貴族精神の発露が見られ,また人生に対する無常感も歌われている。一方旅人には文人的風雅に遊ぶ傾向があり,大宰府において彼が催した〈梅花の宴〉はその尤(ゆう)なるものであって,管下の官人32名が顔を並べている。そのなかの一人である山上憶良は筑前守であり,憶良との間に保たれた交友も,旅人の作歌活動に大きな影響を及ぼした。なお《懐風藻》にも五言詩1首が収められ,彼の漢詩文の造詣の深さを思わせる。〈世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり〉(《万葉集》巻五)。
執筆者:川口 常孝
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『万葉集』中期の代表歌人、官人。父は安麻呂(やすまろ)、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)か(石川内命婦(ないみょうぶ)とする一説もある)。同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹で、家持(やかもち)は嫡子である。710年(和銅3)左将軍正五位上となり、718年(養老2)中納言(ちゅうなごん)、720年征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧した。727年(神亀4)ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り、730年(天平2)12月大納言(だいなごん)となって帰京。翌年従(じゅ)二位となり、その年7月に没した。年67歳。長歌1、短歌76首(異説もある)、ほかに若干の書簡や散文があり、『懐風藻』に詩1首をとどめる。歌は、長歌1首とその反歌1首のほかは、すべて大宰府へ下ってからの作で、晩年に集中する。下向直後の愛妻の死去、筑前守(ちくぜんのかみ)在任中の山上憶良(やまのうえのおくら)との交遊、藤原氏の政治的圧迫に対する憂愁、老齢の地方生活による寂寥(せきりょう)などが作歌へ駆り立てた背景にあろう。みずみずしい哀切の情をすなおに吐露した亡妻挽歌(ばんか)、偽らざる人間の嘆きを託した望郷歌、一読洒脱(しゃだつ)ななかに人生の憂悶(ゆうもん)を歌った酒をたたえる歌などのほか、神仙思想や老荘思想に基づく虚構的作品もある。一級の知識人で、名門大伴氏の長らしく、のびやかで気品ある詠風が特色である。
[橋本達雄]
世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
『高木市之助著『日本詩人選4 大伴旅人・山上憶良』(1972・筑摩書房)』▽『村山出著『日本の作家2 大伴旅人・山上憶良』(1983・新典社)』
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665~731.7.25
多比等・淡等とも。奈良前期の公卿・歌人。父は安麻呂,母は巨勢郎女(こせのいらつめ)。子に家持(やかもち)・書持(ふみもち)がいる。718年(養老2)中納言。720年山背摂官,のち征隼人(はやと)持節大将軍として南九州の隼人の反乱を鎮圧。神亀年間には大宰帥(そち)として赴任し,山上憶良(おくら)とともに筑紫歌壇を形成。730年(天平2)大納言に任じられ帰京,翌年従二位に昇るが,まもなく病没。「懐風藻」には格調の高い漢詩を,「万葉集」には任地九州で死んだ妻の大伴郎女をしのぶ歌など心情豊かな作品を残す。
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…720年(養老4)大隅隼人の蜂起があり,国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)は殺害された。朝廷では征隼人持節大将軍として大伴旅人を差遣,ようやく乱を鎮定することができたが,以来同国は薩摩国とともに辺境の国として扱われ,班田制の施行も大幅に遅れて800年(延暦19)に行われ,しかもはなはだ不徹底なものであった。国の等級は中国であったが財政的にはきわめて弱体であった。…
…奈良時代の歌人。生没年不詳。安麻呂の女,母は石川郎女(邑婆(おおば))。旅人の異母妹。家持の叔母,姑。初め天武天皇第5皇子の穂積親王に嫁し,親王の死後,藤原麻呂の寵(ちよう)をうける。のちさらに異母兄宿奈麻呂(すくなまろ)の妻となり,坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)・二嬢(おといらつめ)を生んだ。佐保の坂上の里に住んだのでこの名がある。神亀年間(724‐729),旅人の妻の死により大宰府に下り,旅人の身辺の世話をするとともに家持の養育にもあたったらしい。…
…その役所を征西将軍府と呼ぶ。《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。 以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3∥暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。…
…【鳥居 淳子】
【日本における遺言の歴史】
天皇が生前に死後の皇位継承,葬送やその他について指示したものは遺詔(ゆいしよう)・遺勅(ゆいちよく)という。古代では《万葉集》に大宰帥大伴旅人が病に際し,庶弟の稲公やおいの胡麿を呼びよせて〈遺言〉をしようとしたとあり,死を予期したときに遺言することが行われていたことが知られる。また死の直前ではなくとも,子孫や門下に伝えるべきことを書き遺(のこ)すこともあり,遺訓(ゆいくん)・遺誡(ゆいかい)とよばれた。…
※「大伴旅人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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