大伴旅人(読み)おおとものたびと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大伴旅人
おおとものたびと

[生]天智4(665)
[没]天平3(731).7.
奈良時代の政治家,歌人大納言安麻呂の長男。家持 (やかもち) の父。養老2 (718) 年中納言,同4年征隼人持節大将軍に任じられ,隼人の反乱鎮圧に功があった。神亀4 (727) 年頃大宰帥 (だざいのそち) となって九州に下り,天平2 (730) 年大納言に昇進して帰京,翌年没。『万葉集』に長歌1首,短歌 53首 (これに巻五の無署名歌を加える説もある) ,漢文の序,書簡,『懐風藻』に詩1編を残す。歌は大宰帥になってからのものがほとんどで,漢文学素養に基づいた構想をもち,情感にあふれた人事詠に特色がある。

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百科事典マイペディアの解説

大伴旅人【おおとものたびと】

奈良時代の政治家,歌人。武門大伴氏の嫡流。家持の父。坂上郎女の異母兄。728年ごろ大宰帥となり,妻子をともなって筑紫に赴任。ここで妻を亡くした。山上憶良や僧満誓と交遊し,筑紫歌壇の中心をなした。老荘的な自由への憧憬をもつ賛酒歌13首や悲哀感や無常感など個人的な抒情を示す〈亡妻挽歌〉などが名高い。《万葉集》に和歌約80首入集。漢詩文への造詣も深く《懐風藻》にも五言詩1首が収められている。
→関連項目大伴坂上郎女大伴家持天平時代

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大伴旅人 おおともの-たびと

665-731 奈良時代の公卿(くぎょう),歌人。
天智天皇4年生まれ。大伴安麻呂の長男。母は一説に巨勢郎女(こせの-いらつめ)。大伴家持(やかもち)の父。中務(なかつかさ)卿,中納言などをへて,神亀(じんき)4年のころ大宰帥(だざいのそち)として赴任。天平(てんぴょう)2年大納言となり奈良へかえる。翌年従二位。歌人としてもすぐれ,山上憶良(おくら)と親交があった。大宰帥時代を中心とする歌70首余が「万葉集」にみえる。天平3年7月25日死去。67歳。名は多比等,淡等ともかく。
【格言など】世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(「万葉集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

大伴旅人

没年:天平3.7.25(731.8.31)
生年:天智4(665)
奈良時代の貴族。『万葉集』の歌人。壬申の乱(672)のときの功臣大伴安麻呂の第1子で,家持,書持の父。母は,弟の田主と同じく巨勢郎女か。安麻呂が,平城京遷都後,佐保に居宅を構え,「佐保大納言卿」などと呼ばれたことをもって,旅人,家持へと続くこの家を,佐保大納言家と称する。奈良時代,大伴氏のなかで,最も有力な家柄であった。和銅3(710)年正五位上左将軍として,『続日本紀』に初めてみえる。中務卿を経て,養老2(718)年中納言となり,神亀1(724)年聖武天皇即位の際に,正三位に昇叙。「暮春の月芳野離宮に幸す時に中納言大伴卿勅を奉りて作る歌」(『万葉集』巻3)は,その直後の行幸に供奉しての作らしい。旅人の作品と判明しているもののうちの初出となるが,長歌は当面の1首のみで,他の推定作を含む七十余首は,すべて短歌であり,しかも中納言兼大宰帥として赴任したのちの4年間に偏ることが注意される。その大宰帥任官は,神亀5年ごろか。天平2(730)年大納言に昇進して帰京。翌年従二位に進んだが,秋に薨じた。『懐風藻』に「初春宴に侍す」と題する詩が録され,年67とある。 老齢で不本意な大宰帥として西下し,着任早々に妻の大伴郎女を失ったこと,また,筑前国守山上憶良との文学的な交流が,晩年の多作の契機となっている。旅人を中心に,憶良,沙弥満誓(笠麻呂),ひいては大宰府官人らを加えて,旺盛な作歌活動が展開されるに至り,近時これを「筑紫歌壇」と呼ぶ。晩年の自身の生活感情をしみじみと表出する性格が際立ち,『万葉集』において,短歌が新たな抒情性を獲得してゆく過程を,この歌人にみて取ることができる。漢詩文の表現を意欲的に摂取し,唐初の伝奇小説『遊仙窟』に倣った「松浦河に遊ぶ」序と歌群(巻5)を合作するなど,歌における風雅の世界を創造していることも見落とせない。また,長歌の衰退期にあって,「讃酒歌十三首」(巻3)をはじめ,短歌による本格的な連作を編み出した歌人としても記憶されるべきである。<参考文献>五味智英『万葉集の作家と作品』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』下

(芳賀紀雄)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおとものたびと【大伴旅人】

665‐731(天智4‐天平3)
奈良時代の政治家,歌人。長徳(ながとこ)の孫,安麻呂の長男。母は巨勢郎女(こせのいらつめ)。家持の父。710年(和銅3)1月,左将軍正五位をもって《続日本紀》に初めて名があらわれ,718年(養老2)3月中納言に任命される。720年3月征隼人持節大将軍となり,大宰府管内の隼人の乱を平らげて京に帰った。神亀年間(724‐729)に大宰帥となって筑紫に下り,着任後ほどなく妻大伴郎女を失った。後,730年秋大納言に任ぜられ,同年12月京へ向かって大宰府を去る。

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大辞林 第三版の解説

おおとものたびと【大伴旅人】

665~731) 奈良前期の歌人。安麻呂の長男。家持の父。728年頃大宰帥だざいのそつとして下向、二年後大納言となり帰京。万葉集所収の歌は、主に大宰帥在任中のもので、山上憶良らと歌壇を形成した。率直な抒情的歌風で知られ、道教的思想の影響を受けたものも多い。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大伴旅人
おおとものたびと
(665―731)

『万葉集』中期の代表歌人、官人。父は安麻呂(やすまろ)、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)か(石川内命婦(ないみょうぶ)とする一説もある)。同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹で、家持(やかもち)は嫡子である。710年(和銅3)左将軍正五位上となり、718年(養老2)中納言(ちゅうなごん)、720年征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧した。727年(神亀4)ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り、730年(天平2)12月大納言(だいなごん)となって帰京。翌年従(じゅ)二位となり、その年7月に没した。年67歳。長歌1、短歌76首(異説もある)、ほかに若干の書簡や散文があり、『懐風藻』に詩1首をとどめる。歌は、長歌1首とその反歌1首のほかは、すべて大宰府へ下ってからの作で、晩年に集中する。下向直後の愛妻の死去、筑前守(ちくぜんのかみ)在任中の山上憶良(やまのうえのおくら)との交遊、藤原氏の政治的圧迫に対する憂愁、老齢の地方生活による寂寥(せきりょう)などが作歌へ駆り立てた背景にあろう。みずみずしい哀切の情をすなおに吐露した亡妻挽歌(ばんか)、偽らざる人間の嘆きを託した望郷歌、一読洒脱(しゃだつ)ななかに人生の憂悶(ゆうもん)を歌った酒をたたえる歌などのほか、神仙思想や老荘思想に基づく虚構的作品もある。一級の知識人で、名門大伴氏の長らしく、のびやかで気品ある詠風が特色である。[橋本達雄]
 世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
『高木市之助著『日本詩人選4 大伴旅人・山上憶良』(1972・筑摩書房) ▽村山出著『日本の作家2 大伴旅人・山上憶良』(1983・新典社)』

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世界大百科事典内の大伴旅人の言及

【大隅国】より

…720年(養老4)大隅隼人の蜂起があり,国守陽候史麻呂(やこのふひとまろ)は殺害された。朝廷では征隼人持節大将軍として大伴旅人を差遣,ようやく乱を鎮定することができたが,以来同国は薩摩国とともに辺境の国として扱われ,班田制の施行も大幅に遅れて800年(延暦19)に行われ,しかもはなはだ不徹底なものであった。国の等級は中国であったが財政的にはきわめて弱体であった。…

【大伴坂上郎女】より

…奈良時代の歌人。生没年不詳。安麻呂の女,母は石川郎女(邑婆(おおば))。旅人の異母妹。家持の叔母,姑。初め天武天皇第5皇子の穂積親王に嫁し,親王の死後,藤原麻呂の寵(ちよう)をうける。のちさらに異母兄宿奈麻呂(すくなまろ)の妻となり,坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)・二嬢(おといらつめ)を生んだ。佐保の坂上の里に住んだのでこの名がある。神亀年間(724‐729),旅人の妻の死により大宰府に下り,旅人の身辺の世話をするとともに家持の養育にもあたったらしい。…

【征西将軍】より

…その役所を征西将軍府と呼ぶ。《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。 以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3∥暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。…

【遺言】より

…【鳥居 淳子】
【日本における遺言の歴史】
 天皇が生前に死後の皇位継承,葬送やその他について指示したものは遺詔(ゆいしよう)・遺勅(ゆいちよく)という。古代では《万葉集》に大宰帥大伴旅人が病に際し,庶弟の稲公やおいの胡麿を呼びよせて〈遺言〉をしようとしたとあり,死を予期したときに遺言することが行われていたことが知られる。また死の直前ではなくとも,子孫や門下に伝えるべきことを書き遺(のこ)すこともあり,遺訓(ゆいくん)・遺誡(ゆいかい)とよばれた。…

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