黒丸村(読み)くろまるむら

日本歴史地名大系 「黒丸村」の解説

黒丸村
くろまるむら

[現在地名]若宮町黒丸

宮永みやなが村の南西犬鳴いぬなき川の支流黒丸川の上流域に位置する。枝郷に清水きよみず村と平山ひらやま村がある(文政四年「平触明細帳」安永家文書)。弘安八年(一二八五)三月日の水原若宮社村々相撲次第(町村書上帳/鎌倉遺文二〇)では、若宮八幡宮の相撲出仕役の二番に「金生 黒丸」とみえる。中世には若宮庄武恒たけつね方の内で、応安六年(一三七三)には「若宮御領武恒方平山寺」(平山の平山寺)十王図(陸信忠筆と伝え、現在は福岡市博多区善導寺蔵)が施入されている(同年一〇月二六日「十王図施入添状」史料蒐集目録/大日本史料六―三九)。天文一二年(一五四三)三月二〇日、大内義隆の重臣内藤興盛は家臣の勝間田盛保に「若宮庄内黒丸郷拾石足能美又兵衛尉跡」を宛行っている(「内藤興盛書下」勝間田家文書/山口県史 史料編中世二)

黒丸村
くろまるむら

[現在地名]福井市黒丸城くろまるじよう

三宅みやけ村の西にある。安貞年間(一二二七―二九)後藤基綱が越前国守護となってこの地に居城し数代続いたといい(福井県史)、一方「越前国名勝志」「越藩拾遺録」などには基綱の父基清以下が隣村三宅村に住したとする。南北朝の争乱期に越前に入国した朝倉広景もこの地に居城し、以来一乗谷移城まで朝倉氏の居城とされたとするのが従来の定説であったが、近年の研究によってこれは吉田郡黒丸村(現福井市黒丸町)の誤りとされた。「国事叢記」「続片聾記」によると、初代福井藩主結城秀康は居城を三宅黒丸城跡に移す計画があったという。

村名は寛永九年(一六三二)の「末代相定八幡村用水之事」(「浜四郷村誌」所収)のうちにみえ、正保郷帳によれば田方二二八石余・畠方一三石余。

黒丸村
くろまるむら

[現在地名]福井市黒丸町

日野川が九頭竜くずりゆう川と合流する付近に位置し、北はこおり村、南は土橋つちはし村に接する。南北朝時代、北朝方斯波高経の黒丸城のあった地として知られる。当村では正月に雑煮を食べない風習があるが、これは当時の落城の苦しみをしのぶためと伝える(西藤島村史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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