黒駒勝蔵(読み)クロコマノカツゾウ

デジタル大辞泉 「黒駒勝蔵」の意味・読み・例文・類語

くろこま‐の‐かつぞう〔‐かつザウ〕【黒駒勝蔵】

[1832~1871]江戸末期の侠客きょうかく甲斐かい黒駒(山梨県笛吹ふえふき市)の人。駿河清水次郎長抗争を繰り返した。

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精選版 日本国語大辞典 「黒駒勝蔵」の意味・読み・例文・類語

くろこま‐の‐かつぞう‥かつザウ【黒駒勝蔵】

  1. 江戸末期の侠客甲斐国黒駒(山梨県笛吹市)の人。駿河の清水次郎長と抗争を繰り返した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「黒駒勝蔵」の意味・わかりやすい解説

黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)
くろこまのかつぞう
(1832―1871)

江戸末期の侠客(きょうかく)。甲斐(かい)国八代(やつしろ)郡上黒駒村(山梨県笛吹(ふえふき)市)の農民の生まれ。1856年(安政3)25歳のとき博徒の群れに投じ、博徒の親分、同郡竹居村(笛吹市)甚兵衛子分になった。その後頭角を現して、甚兵衛の弟安五郎(竹居の吃安(どもやす))とともに甲州における博徒の一勢力を形成、子分は90人余に及んだという。1861年(文久1)以降他派と確執・闘争を繰り返したが、駿河(するが)(静岡県)の清水次郎長(しみずのじろちょう)との抗争は有名。賭博(とばく)、殺害などによる捕縛手配を逃れるため伊勢(いせ)から大坂へ走り、1868年(明治1)赤報隊に参加し、名を池田勝馬と改めて第一遊軍隊配属となった。1870年黒川金山の採掘に着目、調査の建白がいれられて甲斐に入ったが、日限どおりに帰隊しえなかったため脱隊の罪で翌年伊豆国(静岡県)加茂郡で逮捕され、以前の悪事も露顕して10月14日斬刑(ざんけい)に処せられた。墓所は笛吹市御坂町の浄竜寺にある。

[飯田文弥]


黒駒勝蔵(くろこまかつぞう)
くろこまかつぞう

黒駒勝蔵

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朝日日本歴史人物事典 「黒駒勝蔵」の解説

黒駒勝蔵

没年:明治4.10.14(1871.11.26)
生年天保2(1831)
幕末維新期の侠客。本名小池勝蔵。甲斐国(山梨県)黒駒村名主の次男。25歳のとき博徒仲間に投じて竹居吃安の子分になる。甲斐は吃安と祐典仙之助の抗争の舞台で,吃安刑死後に跡目を継いだ。祐典勢との角逐によって東海道筋に出たところで清水次郎長と激突。以後,幕末博徒抗争史はともに機動力に富んだ黒駒と清水の抗争を軸に展開する。比喩的に山賊黒駒対海賊次郎長の争いということだが,三河の平井村の役(1864年)などで黒駒側が劣勢に立つのは,東海道と信濃路の物流(経済)の差である。100人ほどの集団で他領を通過して摩擦する黒駒に対し,海路フリーパスの次郎長は千石船で子分と物資を送りこんだ。慶応2(1866)年の荒神山の喧嘩に客分参加したのち,相楽総三の赤報隊に投じ,池田数馬と名乗って会津征討に参戦。明治4(1871)年,政府は脱隊と官名詐称の罪をきせて斬首(赤報隊始末),維新の内戦に参画した博徒たちを使い捨てた。<参考文献>子母沢寛『仁侠の世界』

(平岡正明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「黒駒勝蔵」の解説

黒駒勝蔵 くろこまの-かつぞう

1832-1871 幕末-明治時代の侠客(きょうかく)。
天保(てんぽう)3年生まれ。生家は甲斐(かい)(山梨県)上黒駒村の名主。安政3年博徒となる。甲斐を代表する親分となったが,清水次郎長との縄張り争いにやぶれる。慶応4年赤報隊に池田勝馬の変名で参加。のち甲斐にもどったが,旧悪が露見し,明治4年10月14日刑死。40歳。姓は小池。

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