日本大百科全書(ニッポニカ) 「龍野藩」の意味・わかりやすい解説
龍野藩
たつのはん
播磨(はりま)国(兵庫県)揖東(いっとう)・揖西(いっさい)・飾西(しきさい)3郡にわたる外様(とざま)大名脇坂(わきざか)氏の藩。この地は中世には赤松氏、近世初めには姫路藩池田氏の支配地であった。1617年(元和3)池田光政(みつまさ)が因幡(いなば)鳥取に移るに及んで、上総(かずさ)(千葉県)大多喜(おおたき)より本多政朝(ほんだまさとも)(石高(こくだか)5万石)が転封し、龍野に城を構え、龍野藩をたてた。1626年(寛永3)政朝が姫路藩を相続すると、小笠原長次(おがさわらながつぐ)(6万石)が来封、ついで32年長次が豊前(ぶぜん)(大分県)中津に移るや、翌年美濃(みの)(岐阜県)大垣(おおがき)から岡部宣勝(おかべのぶかつ)が5万石余で転入、さらに36年宣勝が摂津(せっつ)(大阪府)高槻(たかつき)に移るや、翌年出雲(いずも)(島根県)松江から京極高和(きょうごくたかかず)が6万石余で入部、58年(万治1)高和が讃岐(さぬき)(香川県)丸亀に移ると、しばらく天領となり城はつぶされた。1672年(寛文12)信濃(しなの)(長野県)飯田から脇坂安政(やすまさ)が5万3000石余で入部、城を修復しふたたび藩領となった。安照(やすてる)、安清(やすきよ)、安興(やすおき)、安弘(やすひろ)、安実(やすざね)、安親(やすちか)、安董(やすただ)、安宅(やすおり)、安斐(やすあや)と続いて明治に至った。安董は寺社奉行(ぶぎょう)から老中となり天保(てんぽう)の改革に加わった。内政にも意を用い、藩校敬楽館(けいごうかん)を創設して藩士の教育を行った。1871年(明治4)廃藩、龍野県、姫路県、飾磨(しかま)県を経て76年兵庫県に編入された。
[小林 茂]