大井才太郎(読み)おおいさいたろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大井才太郎」の意味・わかりやすい解説

大井才太郎
おおいさいたろう
(1856―1924)

電気工学者。三重県出身。1882年(明治15)工部大学校(現、東京大学工学部)電信科を卒業、工部省電信局に勤務。電話事業開始に際して欧米視察(1888~1889)、帰国後「電話交換方法大要」を著し、「電話敷設規則」を起草した。1890年、東京・横浜電話交換局創設主管として電話事業開始に尽力。東京、大阪の電話交換局長などを経たのち、1893年逓信(ていしん)省通信局工務課長として台湾―鹿児島間、壱岐(いき)―対馬(つしま)間の海底電信線敷設工事に浅野応輔(おうすけ)とともに従事、1896年第一次電話拡張計画の原案を起草した。日本の電信電話事業の基礎を技術面から築いた。電気学会創立者の一人で、第6代会長を務めた。

[井原 聰]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「大井才太郎」の解説

大井 才太郎
オオイ サイタロウ

明治・大正期の電気工学者 電気学会会長。



生年
安政3年11月17日(1856年)

没年
大正13(1924)年12月1日

出生地
伊勢国(三重県)

学歴〔年〕
工部大学校(現・東京大学)電信科〔明治15年〕卒

経歴
工部省電信局に入り、明治21〜22年欧米の電話技術を視察。帰国後、東京‐横浜間、大阪‐神戸間の電話回線架設を指導、また台湾‐鹿児島間、壱岐‐対馬間海底電線敷設工事にあたる。26年逓信省通信局工務課長となり、大正2年退官するまで、日本の電信電話事業の基礎体制確立に貢献した。退官後は日本電気などの重役歴任。電気学会創立者の1人で、第6代会長も務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「大井才太郎」の解説

大井才太郎

没年:大正13.12.1(1924)
生年:安政3.11.17(1856.12.14)
明治大正期の電信電話技術者,行政家。三重県に生まれ,明治15(1882)年工部大学校電信学科を卒業。工部技手,逓信技師として電信線建設に従事した。電話事業をわが国に導入するに当たって民営論と官営論があったが,政府は官営論に決定して,大井を海外視察に派遣した。21年からドイツ,イギリス,アメリカを視察し翌年帰国。東京および横浜電話交換局創設を担当し,23年に交換が開始された。その後は海底電信線布設に従事し,また公債支弁の電話拡張計画をたてて拡張を実現した。大正6(1917)年,電気学会会長に選ばれた。

(高橋雄造)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大井才太郎」の解説

大井才太郎 おおい-さいたろう

1856-1924 明治-大正時代の電気工学者。
安政3年11月17日生まれ。工部省,逓信省につとめ,明治21年欧米を視察。翌年東京-横浜,大阪-神戸間の電話回線架設に従事。23年鹿児島-台湾間の海底電信線を敷設した。電気学会会長。大正13年12月1日死去。69歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。工部大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「大井才太郎」の解説

大井 才太郎 (おおい さいたろう)

生年月日:1856年11月17日
明治時代;大正時代の電気工学者
1924年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

五節舞

日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...

五節舞の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android