美河原庄(読み)みがわらのしよう

日本歴史地名大系 「美河原庄」の解説

美河原庄
みがわらのしよう

箕面市北西部の山間余野よの上流域の上・下両止々呂美とどろみにあった比叡山山門領の庄園。天台別院総持そうじ(現茨木市)の寺領で、比叡山浄土じようど寺門跡が本所としてこれを管領した。勝尾寺文書に一連の当庄関係文書があるが、そのなかには当庄を「真河原庄」あるいは「直河原庄」と表記しているものがある。庄名は貞観五年(八六三)年号を記した官宣旨(勝尾寺文書、以下同文書は個別文書名のみ記す)に「摂津国外院・高山・直河原三ケ庄」とみえるが、これは偽文書で信用できない。年代の確かな史料としては、寛喜二年(一二三〇)閏正月二七日、勝尾かつお寺の境内山地の境域を定めた勝尾寺四至注文で、示の「四角四天石蔵」の所在地を記した中に「戌亥高山・真川原両堺」とあるのが初見である。現存する勝尾寺の示石蔵の所在位置から判断すると、箕面滝の上流の箕面川の西側山地から止々呂美にかけての一帯が真河原(美河原)庄の庄域で、あけ田尾だお山の稜線辺りを境として高山たかやま(現豊能郡豊能町)と接していたと考えられる。浄土寺門跡領(総持寺領)としての成立事情は明らかではないが、鎌倉末期の当庄領有をめぐる訴訟で、浄土寺門跡がその証拠文書として、天治二年(一一二五)国司免判や、嘉応元年(一一六九)の宣旨を提出した事実があるから(元弘三年一二月一八日雑訴決断所評定文案)、平安末期に当庄に対する山門の支配が確立したとみてよいであろう。

建長二年(一二五〇)に行われた検注によると、美河原庄の庄田畑は合計九町五反余で、年貢を賦課する定田畑が五町四反余、その他諸用途に充てる除田畑が四町一反ほどであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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